該当する時代のドイツの王
カロリング朝
カール大帝(在位768〜814年)
774年 ランゴバルド王国を手に入れる一方、ザクセン人とも戦い、
776年には ザクセン人が侵入していた パーダーボルンを支配。 ここに王城を築いた。ザクセン人を完全に抑えたのは804年、
これにより版図はエルベ川まで広がった。
800年 カール大帝、教皇レオ3世により戴冠、(西)ローマ皇帝となる。
ルードヴィッヒ敬虔王(ルイ1世)(在位814〜840年) ヒルデスハイムの薔薇に関連して出てくる。
こののち分割相続によりルイ1世の子の一人が現ドイツであるフランク王国の王になるが、ルイ4世(900〜911年) で断絶
フランケンのコンラート1世(911〜918年)男子の世継ぎがなかったため ザクセン家に王位が移る。
ハインリヒ1世(在位919〜936年)ザクセン王朝 始まる(オットー朝ともいう)
クヴェトリンブルクで狩猟中、王に選ばれたとの報を受けたため鳥刺し王とあだ名される。
妻(二度目)マティルデ(896頃〜968年) クヴェトリンブルク 女子修道院創設
長男オットーT(大帝)
次男 ハインリヒ(ヘルトォーク・フォン・バイエルンとなり、この家系からザクセン朝最後の皇帝となるハインリッヒUが 出る)
三男 ブルーノ(生925頃 ケルン大司教953〜 没965年)
オットーT (生912在位(936)962〜973)
妻 エドギダとともに マグデブルク大聖堂に葬られている。
妻@ エドギダ(946年没)イングンド王エドワードの姫君
長男 リドウルフ
長女 リウトガルド(ヘルツォーク・フォン・ロートリンゲンと結婚 この家系からザアーリア朝が興る)
妻A アーデルハイト
長男 オットーU
長女 マティルデ 初代クヴェトリンブルク女子修道院長(966〜999 )
オットーU(生955 在位(961)967/973〜983)
ローマで亡くなったため、墓はサン・ピエトロ大聖堂にある。
妻 テオファノ(ビザンツ皇女、955頃から991結婚は972年)
長男 オットーV (早逝した父に代わり家庭教師として指導したのが、ヒルデスハイム司教 ペルンヴァルト)
娘@ アーデルハイト クヴェトリンブルク他の女子修道院長
娘A ゾフィー
娘B マティルデ
オットーV(生980 在位(983)996〜1002)未婚のまま早逝したため、オットー大帝の次男の家系からハインリヒUに王位が移った。
ハインリヒU(生973 在位(1002)1014〜1024) ハインリヒTの曽孫
妻グニグンデ
バンベルクに司教座を創設 夫妻ともバンベルク大聖堂に葬られている。
子供がなかったため、ここでザクセン朝(オットー朝)は絶える。
オットー大帝の長女リウトガルトの嫁した ロートリンゲン家のコンラートが継いだ。
ここに ザーリア朝 が始まる。
コンラートU(生990頃 在位(1024)1027〜1039)
有名なシュパイヤー大聖堂を作ったことで知られるが、今回の旅ではシュパイヤーには行かない。(私は2003年に行った)
今回の旅に関連する王たちは上にあげたような人々。
なお在位の年度でかっこ内はドイツ王に即位した年。かっこのないのが皇帝に即位した年。
該当年代の教会建築について
主な考書としては 『 ドイツ中世美術 T』 岡野 ハインリヒ圭一著
ドイツの教会建築でよく 西構えとかヴェストヴェルクという言葉を聞くが、上記 岡野氏によると、
Wes twerk とは 西構えWest bau(bauとは建築とか構造の意味)の一種で帝王の玉座を内蔵する特殊な構築体として(ただし機能に関しては文献的確証無し)教会の西端に配置される独立的性格の強い多層構成の建築躯体。
カロリング朝で現存するのは 3日目に行くコルヴァイ修道院のみ。
そのほか、 この時期のドイツ教会建築に特徴的なものは
両端内陣(氏は二重内陣という言葉を不適切としている)といって 東西にそれぞれ内陣を持つもの。
もともとは二人の守護を祭るためだったらしいが、皇帝の座所となり、皇帝崇拝のためになった。
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