おわりに



今回の旅で訪れた国は 旧ユーゴスラヴィア連邦六カ国のうちの三ヶ国スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナである。

美しい海岸線、中国の九塞江に匹敵、いやそれ以上ともいわれる湖や滝などで、最近人気が高まっている地域である。
たしかに景色は美しかった。しかし旅を終えて最も強烈な印象を受けたのはボスニア・ヘルツェゴヴィナであった。 
 
つい数年前まで私はこれらの国について、殆んど知らなかった。
知っていたのはチトーという大統領がいたこと、東欧共産圏ではあるがソ連とは違った社会主義国であること、首都がベオグラードであることくらい。
そのユーゴで内戦が起こって何だか危険だ、ということはニュースで知っていたが、とても複雑そうでろくに新聞も読んでいなかった。

10年くらい前に ある映画を見て関心をもち、一度行ってみたい国とはなっていたがチャンスがなかった。
2005年に ≪『見ることの塩』パレスチナ・セルビア紀行≫ という本を読み 行きたい気持ちが強まった。
旧ユーゴに行くことに決めた一昨年くらい前から、カルチャーセンターで関連の講座をとったり、本を読んだりし始めた。

ユーゴスラヴィア
(ユーゴと書くことにする)解体、というのでユーゴという国はずっと歴史的に存在していたと思いこんでいたが、驚いたことにこのユーゴはたった70年余りの歴史しかもっていない。 
民族自決の考えに基づき、1918年、南スラヴの単一民族国家としての セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人王国樹立 ユーゴスラヴィア王国と国名が変わるのは、29年である。

ここで 気になるのは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナという名が出てこないことである。
加藤雅彦著『バルカン ユーゴの悲劇』では、
ボスニアに住むイスラム教徒は 独自の民族としての扱いを受けていなかった。
(その理由として)そのルーツをたどれば、もともとセルビア人かクロアチア人であるが トルコ支配の間に、民族としての帰属意識を殆んど失い、イスラム教徒であることに自らのアイデンティティーを見出していた。(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史とは 違うところがある)
社会主義体制のもとでは、信仰をアイデンティティーとする民族の存在は許されなかった。しかし1961年になって、独自の民族としての地位が認められるようになり、ムスリム人という民族カテゴリーが導入された。
 ・・・とある。

歴史の浅い国なので、何かのきっかけで解体してしまうことがあってもおかしくはないのかもしれない。
解体の理由はそもそもの成り立ちの中にあった。ユーゴスラヴィアという国を造ろうとしたとき、セルビアとクロアチアでは構想が違っていた。セルビアはセルビア主導の中央集権国家をめざしクロアチアは連邦を前提とするユーゴスラヴ思想を持っていた。結合はもともと危ういものだったのだ。

1945年には  王政廃止。 
ユーゴスラヴィア連邦人民共和国が建国されチトー大統領のもと、独自の社会主義の道を歩んだが、80年 チトーの死により、 求心力を失った。 
各共和国の権利の平等が人数的に多いセルビア人の権限の縮小を意味すること、各共和国の経済格差など、もともと抱え持っていた問題が表面化、経済不況 。そういうときに、 東欧革命が起きた。

スロヴェニアでもクロアチアでも共産党一党独裁の廃止、複数政党制が導入される。そうして、連邦からの離脱へと動く。
 
91年スロヴェニアとクロアチアは 独立宣言。スロヴェニアの離脱は 十日間戦争で終わったが、 国内にセルビア人が多く住む クロアチアでは 激しい内戦が繰り広げられた(市民だけで 死者一万人、難民二十六万人)が92年2月27日 内戦終結宣言。
最終的には東スラヴォニア地方を統合した98年に終結。

クロアチアの歴史を概観しているうちに、グラゴール文字のことを思い出した。言語というのは最もその民族の民族たる所以を示すものである。これら三国の言葉は方言程度の違いしかないという。そこで その言語を表わす文字へのこだわりが 民族アイデンティティーの証左になっているのではないか、と思ったのだ。ラテン語使用を拒否し文字にまでこだわることは 自分たちはハプスブルグ家にくみこまれるつもりはない ことの意思表示なのであろう。しかしそのことは逆に、そのクロアチア意識が強すぎ、過去のほんの一時期の 広い領土を持っていた当時への回帰という 大クロアチア主義の証でもあるのではないか。(これは私の全く個人的な感想、文字についてこだわりすぎるべきではない、という文章も下に掲げる本のどこかで、読んだ)
大クロアチア主義が大セルビア主義とともに第二次大戦中や
90年代の内戦での非人道的な行為をもたらす争いの原因の一つになったと言われている。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナも92年、 住民投票により独立を決定、ECもこれを承認した。(ボスニア・ヘルツェゴヴィナを単にボスニアと書く)
しかし三民族の住む、ボスニアでは、 クロアチア人セルビア人は 国境のかなたに本国を持っている。ボスニア・イスラム教徒は本国をもたぬ弱小民族。 ボスニアがまだ紛争の舞台になっていなかった 91年3月、すでにミロシェヴィッチとトゥジマンは、ボスニアをセルビア、クロアチアで分割することに同意していたとも伝えられる。(以上、主に 『バルカンユーゴの悲劇』を参考にした)
 ここでは 強制収容所や 集団レイプといったおぞましい行為まで生ずる事態が起こった。
 理由として、 『バルカン史』 芝宣弘編(山川出版社)では
 T、 民族主義的な 政治家による扇動
 U、 マスメディアによる民族主義プロパガンダ
 V、 ユーゴ国外の民族主義グループの影響
 W、 民族自決を正義とする国際世論
 こうした外敵要因に加えて、 第二次大戦期の兄弟殺しの記憶、 近親憎悪、 全人民防衛により通常用の武器が各地におかれていて入手が用意だったこと が あげられている。 

95年に ボスニア連邦(ボスニア・ムスリムとクロアチア人)とセルビア共和国という二つの政体からなる単一の国家、という形をとることによって終結をみた。

クロアチアでもボスニアでも内戦の契機となった セルビア人問題 は いまだ解決されていない、ということだ。

サラエボのどこまでも続く白く新しい墓標の連なりは 私の記憶から消えることはないだろう。


読んだ本

 ガイドブック 

  地球の歩き方
 
クロアチア 旅名人ブックス

*  歴史 
バルカン諸国を訪れると、なぜ戦わなければならなかったのか?という疑問が起こる。答えを求めて、手に入るものをあれこれ読んでみた。まだ定説はないのか本によって違いもあり、それをまとめることは、国際情勢に疎い私にとって手に余る作業だった。
結局 『地球の歩き方』の各国情報の最後に付けられている、小史が一番簡単で要領よくまとまっていた。

  図説 バルカンの歴史 芝宣弘 著 河出書房新社

  バルカン史 芝宣弘 編 山川出版社 98年

* ビザンツと東欧・ロシア  森安達也  講談社 ビジュアル版世界の歴史 85年

* ビザンツとスラヴ  井上浩一/栗生沢猛夫著 中央公論社 世界の歴史11 98年

  バルカン ユーゴ悲劇の深層 加藤雅彦著 日本経済新聞社 93年
  カルチャーセンターで 加藤先生の講座を受講した。 その時のテキストがこの本
  複雑な 現代史も分かりやすく書かれているが、 出版年が早いので、その後の進展にふれられていないのが残念 

* キリスト教史 V 森安達也著 山川出版社 

* 『ローマ教皇とナチス』  大澤武雄著  文春新書

   各国史

 * ボスニア・ヘルツェゴビナ史 ロバート・J・ドーニャ、ジョン・V・A・ファイン著 恒文社 95年(94年)

  クロアチア  ジョルジュ・カステラン、ガブリエラ・ヴィダン著 白水社 文庫クセジュ


、著者によって見方が違ったり、典拠とする資料が違うのか数値が異なったりするものもあった。ボゴミル派についてなどは、ファインの説が新しく、芝氏はとりいれておられるが、95年以前の本では取り入れられていない。(参考のためにいくつかについては 出版年度(翻訳ものについては 原著の発行年も)を書き添えた)
そういうわけで、この旅日記の記述も多少の矛盾はあると思う。 関心のおありの方は それぞれの本にあたっていただければと思います。

**  読み物

  * 『見ることの塩 パレスティナ・セルビア紀行』 四方田犬彦著 作品社

   * 『バルカンの亡霊たち』 カプラン

  * 『最後の努力』 ほか ローマ人の物語 塩野七生著 新潮社

    カーラのゲーム』 ゴードン・スティーヴンズ著 東京創元社

冒険小説、というジャンルになるのか?しかし内戦で苦しめられている人の描写は単なるエンタメとは一線を画しているように思う。

1994年、 ボスニアの マラガイ(サラエボより北にある町)に住むカーラという女性の話。この町は新市街と旧市街が川に隔てられている。町はセルビア軍に包囲されていて、食糧の配給所は新市街。カーラたち旧市街の住民は橋を渡らなければいけないが、身を隠すところのない橋を渡る人々をセルビア軍のスナイパーは狙っている。そういう状況の中、カーラは英国SAS隊員の兵士を助け、逆に彼女も世話になる。しかし結局カーラは子供も夫も失う。
うち続くセルビア軍の砲撃は国連不介入のルールにのためやむことをしらない。
西側は ボスニアを見捨てたのか? 
SAS隊員の言葉「次に国連がきみの同胞を見捨てたとき、君は西側諸国が欲する何かを手中におさめていなければならない。西側を恐怖させる何かを手に入れていなければならないんだ」かくして、彼女は彼女のゲームをするために テロリストになる。
彼女がテロリストにならざるを得なかった包囲されている状況の描写は、こういうことが当時ボスニアで、ふつうに起こっていたのだろうと思わせられるもので、胸をしめつけられるような思いで読んだ。
こういう状況は今もパレスティナなどでおこっているのだろう。
 
ボスニア・ヘルツェゴビナを旅行中、 何度となく、この小説を思い返していた。

 

** その他
   * 『都市の地中海』  陣内秀信 NTT出版

映画 

 『サラエボの花』  内戦後12年たったサラエヴォ(映画のタイトルは ボ になっている)の母娘の話 
             苦しい生活の中で何とか娘と幸せに生きようと頑張る母の過去が修学旅行費用のことから、露わになる。
            
 『エネミーライン』 いかにもアメリカ映画だけれど、 内戦時の話なのであげておく

 

買い物
 今回は少なかった。
     
 ペンダントトップ    ポーチ(柄が可愛いい)
     
 ブレッド湖で買った天使のお人形  海綿  刺繍のしおりとカード
     
 ヴェゲタ(野菜スープの素らしいが、 
塩分が強いのでハーブソルトとして使っている
 ピランの塩  ストンの塩
     
 チョコレート  チョコレート  ラベンダー  オイルと匂い袋
     
 フランケンワイン