10年以上前からバルト三カ国にはずっと行きたいとおもっていたが、それは最初にも書いたように十字軍のことと、ある映画に惹かれてのことで、実際の景色や町の様子を写真に見たから、というわけではなかった。
行く前にガイドブックの写真などから光景を思い浮かべることはできたが、これほど美しいところだとは思っていなかった。
季節もよかった。町のあちこちではライラックの花盛り。東京以南に住む人間にとってライラックは珍しい木なので大感激。
白 藤色 赤紫 の小さい花が円錐形にびっしりつまって咲いていてとても華やか。
郊外に出ると、森と草原、場所によっては一面の菜の花畑と白樺林。白樺も私の住んでいるところでは殆どみないが、日本のより大きく幹もしっかりしているようだ。
そうして首都の旧市街 中世の面影を残していてあちこち歩き回るのが楽しかった。特にタリンはメルヘンチックだった。
また海を見るのが好きな私にとっては、サーレマー島やムフ島でみた海も忘れられない。
美しい景色の堪能できるいい旅だった。
三カ国のうち、現 エストニア、ラトヴィアは ドイツ人司教、ドイツ騎士団によって国のもとを築かれたといってよい国である。
キリスト教布教を武力によって行い 残虐、非道なやりかたで改宗させたことが 『北の十字軍』に書かれていたので、ドイツ人の痕跡、をみたい、また現地人はドイツ人をどうみているのだろうか、という疑問点もあった。が、頭の中では直前のソヴィエト支配への怨嗟の方が強いだろうな、と予想していた。
しかし、現地の人(といってもガイドさんしかいないが)に聞くチャンスはなかった。 スルーガイドで一緒に長くバスに乗ったりするといろいろ質問を受けつけてくれることがるのだが。
改めて、行く前にはいい加減にしか読んでいなかった バルト三国の歴史 の近代以降のところを読むと、そのドイツ人たちは騎士団が解散してもずっと権力者であり続け、現地民は農奴状態におかれていたことが書かれていた。
ただ、農民への教育、また歌の指導をしたのもドイツ人牧師たちであり、それが民族運動の源ともなった(このときは既に新教になっているので、ルーテル派牧師、意地の悪い見方をすれば もうキリスト教は浸透しているので、力でもって改宗をせまる必要はなく ひたすら、教育のたずさわっていればよかったのね、ともいえるが)
また農奴解放によって解放された農民たちは土地を持たなかったため都市へ流れた。ちょうど産業革命の時期だったので、これを担う労働力となり、ソヴィエト圏では(バルカン諸国などとくらべて)工業化の進んだ地域となっている。(農奴解放の時、安く土地を手にいれることができたリトアニアでは 農民は農村にとどまった。そのリトアニアは産業の近代化におくれをとった)
起こったことの一つ一つをとってみれば苦難続きであるが、長い歴史を見ると一言では言えないものだな、と思ってしまう。禍福はあざなえる縄のごとし、などと言うのは冒涜であろう。
読んだ本
ガイドブック : 地球の歩き方『バルトの国々』
るるぶ バルト三国
紀行 : バルト三国歴史紀行 T、U V 原 翔 著 彩流社
『エストニア紀行』 梨木香歩著 新潮社
歴史書 : 物語 バルト三国の歴史 志摩周子著
バルト三国史 鈴木徹著 東海大学出版会
『北の十字軍』 山内進著 小段者選書メチエ(現在は講談社学術文庫にはいっているようです)
エルサレム奪回を目指した東方十字軍は有名だが、ヨーロッパ北東部に向けての十字軍もあったことを知ったのは ヨーロッパキリスト教史の講座を受講するようになってからのこと。
十字軍はエルサレムを目指した軍も神様関係なしの大虐殺を繰り広げたわけだが、北方十字軍においても残虐な殺戮を行ったという。
しかしこの『北の十字軍』 には
「異教徒を武器もしくは圧迫によってキリスト教信仰へと強制することは、合法的ではない」、とはっきり言い切った司教のいたことが書かれている。
この残虐な異教徒征伐に対して(現代人の理性では当然なのだが)「これは間違っている」とあのコンスタンツの宗教会議で物申したポーランド司教がいたことに私はすっかり感動してしまった。
コンスタンツの宗教会議は三人もの教皇が出たことに対する対策として開かれたものだが、ここで「異教徒を武器もしくは圧迫によってキリスト教徒へと強制することは合法的ではない」と主張した人がいるのはすごいことだ。
異端の罪でボヘミアのフスは焚刑に処せられ、既に亡くなっていたウイクリフは墓をあばかれて遺体が焼かれた(焼かれてしまうと死後の復活がありえないため)、そういう公会議においてである。 |
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美術関係 :『「死の舞踏」への旅』 小池寿子著 中央公論新社
文学 :『粛清』 ソフィ.オクサネン著 早川書房 エストニア農村の第一次大戦前から独立直後までの話
映画 :「パン・タデウシュ物語」アダム・ミツキエヴィッチの叙事詩をもとにしたアンジェイ・ワイダ監督作品
19世紀初めの ポーランド(現リトアニア)の農村が舞台
ロミオとジュリエットのように、仲の悪い二つの家の若者の恋愛を軸に語られる壮大な絵巻物。
当時はロシア支配下にあり、進軍してきたナポレオンに望をかける場面もあった。
民族衣装で踊ったり歌ったりの大はしゃぎ(これがワイダ作品?とおもったところもあったが)
映画の最初と最後、亡命先のパリで喪服のような黒い服を着た人々を前にしての詩の朗読が印象的だった
ポーランド、リトアニアの当時の状況を知る上にも参考になる
:「クロワッサンで朝食を」ジャンヌ・モロー久々の主演とあって大人気なようであるが、
監督のイルマル・ラーグは エストニアのサーレマー島出身
ジャンヌ・モロー演ずる老婦人もやってくる家政婦もエストニア人、
エストニアについてはあまりふれられていないが、パリにはエストニア福音協会というのもあるらしい。
パリは芸術家にとって憧れの町でありまたナチスやソ連の支配からのがれてくる人の町でもあったことが察せられる
現在パリに住むエストニア人は1000人くらいだそうだ。
私は観ていないが ミュージカルで SEMPO という杉原千畝氏をモデルにしたものがある。
ところで
1940年7月から約一ヶ月、杉原千畝氏が何故ユダヤ人のためにビザを発行することになったか、
というその遠因として1939年イギリスのバルフォア宣言撤回があるという話を、パレスチナについての講座を受けていて聴いた。
イギリスはそれまで、理由はともあれユダヤ人のナショナル・ホームを造るという考えでユダヤ人を支えていた。
しかし第二次大戦で、ユダヤ人はナチスドイツに迫害されているのでドイツにつくことは絶対にないが、アラブ側には反英感情がひろがっている。ここでアラブがドイツについたら大変、というわけだ。
そこでバルフォア宣言を撤回し、迫害されているユダヤ人がイギリスにのがれてくるパイプを閉ざしてしまった。
唯一の逃げ道がシベリアから、ウラジオストック、敦賀、神戸を経由して当時日本に支配下にあった上海へ渡ることだったのだそうだ。上海からなら、アメリカでもイスラエルにでも行くことが出来たのだ。
そういう理由でユダヤ人たちはカウナスの日本人領事館に殺到したのだそうで、彼らのためにぎりぎり杉原氏は駅ホームでまでも判を押し続けたのです。 |
買ったもの
買ってきたテーブルクロスの上に並べてみました。どれも高価なものではありません。
いくつかを 大きくしてみると
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ジュニパー(杜松)で作られたヘラや バターナイフ |
バルト海は 琥珀の産地
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マグネット |
ラトヴィア、リーガの市場で買ったもの
これは当たりでした。スモークされているようで、
レモンを絞る必要もなかったです。 |
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天使人形(左 カーリークレーターのそばで買ったレース編み
右 ヴィリニュスで買った素朴な木彫り) |
左は 煙突掃除人、 右は バイキング |
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右側のピアス、 本来、三角の札のようなものは指輪につけられます。 結婚式の七日前から一つずつはずしていくのだそうでだ。
それぞれ 右に示したように幸運をもたらす意味合いがあるという。。 |
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ケースのデザインも素敵、ちょっとケルトっぽい |
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民族衣装のスカート柄の ミルク入れ |
鍋つかみとお茶帽子 |
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ラトヴィアの石鹸とバスソルト |
それから植物を知らない私のために旅行中Uさんが作ってくださった押し花。,大事な大事な記念の品。
よいお仲間と添乗員さんのおかげで思い出深い旅となったことを とても嬉しく思っています。2013.09.28 完
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