以前から行きたいと思いつつ、たとえばイタリアのように「各駅停車で見所満載」、といった国ではないせいか、決心するには至らなかったこの地への旅が、別のツアーの直前キャンセルにより実現した。
そのおかげで、事前の予習というものが殆ど出来なかった。
でもそれもいいものだ。予習しすぎると、現地を見たらそれでもうおしまい。予習なしだと現地でのサプライズ、それに帰ってから本を読むのも楽しい。
今回の旅で心に残ったのは、他の西欧の国々では見かけない色々な形の教会の素晴らしさ、ルーマニアでは深い森、草花の咲き乱れる野の美しさ、ブルガリアでは各地の教会のフレスコ画の美しさなど。
勿論、両方の国の中世の面影を残す町並みも印象深い。
日本に戻ってから、この二つの国に関する本を何冊か読んでみた。
まず、世界史地図帳を広げて年代をさかのぼってみると、1815年の地図ではドナウ川以南はオスマン・トルコでブルガリアの名はなく、ルーマニアは、国ではなくただ、ワラキア、ハンガリーにわたって、トランシルバニア、モルダビアと記されているだけ。ルーマニアの名もない。
14世紀までさかのぼると、やっと、ブルガリア王国の名が出てくるが、ルーマニアは、ワラキアで、ハンガリーが大きくのしかかっている。
11世紀では、ブルガリアの名はなく、ビザンティン帝国にのみこまれている。ルーマニアの場所は白ヌキで、ベチェネックと書かれている。国らしい国はなかったらしい。
8世紀後半にはブルガールの名は見えるが、それ以前はまたビザンティン帝国にのみこまれている。
ロシア、東欧の人々は総じて、スラブ系といわれるが、スラブ人のことが歴史上に現れるのは6世紀ごろ、とされていて、印欧語族に属するが、原郷はどこか、定かではない。しかし、カルパチア山脈とドニエプル川の間にいた、名にしれぬ大民族集団であったようである。
ルーマニア・ブルガリアでは次々おそってくる、アヴァール人、ブルガール人に、服従していたが、同一の集落に住むようになって、侵入者たちは次第に数の多いスラブ人に同化していったらしい。
さらにさかのぼると、この地はローマ帝国になっている。
106年には、当時ダキアとよばれたルーマニアはローマの属州となっていて(271年にはゲルマンの侵入により撤退)この時期にダキア人のローマ化がすすんだ。それで、今もロマーニアというわけである。
バスのなかで、いくつかルーマニア語を教えていただいたが、私の知っている数少ないイタリア語に似ている言葉がいくつかあった。
たとえば 『こんばんは』 は ブーナセアラ(ボナセーラ) 『いくらですか』 は クットゥコスタ(カントコスタ) 『 ごめんなさい』はスクーゼ(スクージ)など。
同じようにローマに服していた、ブルガリアは全く言葉が違う。これはどういう理由によるものだろうか。人の顔も同じようで、ガイドさんもしゃべらなければ、ルーマニア人とブルガリア人の区別はつかない、と言っていた。
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このように ルーマニア・ブルガリアの両国は北にロシア(時代によってはポーランド)、南にオスマン・トルコ(時代によってはビザンティン帝国)、西にハンガリー、と大国に囲まれ、やっと19世紀後半になって、露土戦争の結果独立出来た国なのだ。
日本のように(異論はあろうが)島国で国の輪郭がはっきりしていて、国としてのアイデンティティーを保ち続けられてきた国の人間としては考えられないような歴史だ。
そうして、そのように独立した国が何と、国王をヨーロッパの王室からよんできている。
それまでの王家の血筋が途絶えて親類筋から、といったわけではなく、全く新たにで、ある。
ルーマニアでは王はルーマニアの貴族の娘とは結婚してはならないとされていたが、それは特定の貴族が権力を持つことになるからだそうだ。
日本の皇室では男子がお生まれにならない。だからと言ってタイとか(アジアの王国は他にどこだったか)から王子様を、それとも青い目の天皇様を迎えよう、ということが起こりえるであろうか。
国としての誇りが傷つけられた思いがしなかったのであろうか。
ともかく複雑な歴史、政治・社会情勢で簡単に要約はできないが、大土地所有者や実業家による支配は当然農民運動、民族再生運動を招き、その結果、第二次大戦後の共産主義政権の成立、最初は順調だった経済も悪化して、ソ連のペレストロイの影響などから、共産主義体制が崩壊したのが89年。
非共産党政権が誕生したのは、ブルガリアが91年、ルーマニアは96年である。
日本に帰った8月始めは終戦記念日を前に戦後60年を振り返ろうとか、首相の靖国参拝の是非などが新聞紙上を賑わせていたが、これら二つの国は日本で言うならば、戦後の混乱期をやっと脱して軌道に乗り始めたという時期であろうか。
のどかな心安らぐ農村風景を楽しんだが、大変な歴史を背負った国へ旅したものだ。
ホテルの設備の古さなど、まだ仕方のないことかもしれない。
今回も旅仲間に恵まれ、楽しく気持ちの良い旅だった。
少しお若い方、高齢の方もいらしたが、ほぼ同年代のためか、歩くのもゆったりペースで私にはラクであった。
入社二年目の添乗員さんは全力投球型の頑張りやさんで、最後には「何年かしたら、OOOツアーをやって成長したOOO君に会おうよ」という声がきかれるほどよくやってくださった。感謝である。
旅仲間のS氏にご指摘いただいて、何箇所か訂正しました(05・10・28)。感謝いたします。
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