14時35分〜14時50分 バス
旧市街の細い道を抜けてうねうねと沙かを登っていく、途中 崩壊した城塞の跡、丘の上の パラドール、ホテルはパラドール Parador de Soria
スペインでは シェスタがあり、16時までどこもお休みなので、それまで我々もホテルで小休憩
お部屋はさほどひろくないが一人には十分。ベランダがあり眼下に旧市街、右手にドゥエロ川。遠くは砂漠のような禿山。
ベランダからの眺め 左から順に |
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新市街 |
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旧市街 多分これも日ほど行く教会だと思う |
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水色が ドゥエロ川、橋を渡って、左の教会に行く(サン・ファン・デ・ドゥエロ修道院) |
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右下が サン・ファン・デ・ドゥエロ修道院 その先に広がる台地 |
このソリアという町に 紀元前4世紀からケルトイベリア人が住んでいて、紀元前2世紀には ローマに征服されたのだが、 近くのヌマンシアは紀元前133年ローマに対して徹底抗戦し自決した町として有名で、その後のローマ時代の廃墟があるそうだ。
時代が下って レコンキスタの時代、このソリアや明日行くことになっているゴルマスやベルランガとともに対イスラムの要塞都市であったそうだ。イスラム勢力がはいってきたのは8世紀
このパラドールの丘にはイスラム側の要塞があった。パラドールにあがってくる途中で 廃墟をみかけたが 写真を撮るチャンスをを逸してしまった。 1119年 アラゴン王アルフォンソ8世。。しかし その間 戦争ばかりしていたのではなく 休戦もあり、 そういうときは 易で栄えたそうだ。ついでに言うと キリスト教徒対イスラム教徒だけではなく キリスト教徒どうしで戦うこともあり、そういうときに イスラム教徒の援軍を頼むこともあった、という。 要するにみな自分の領土拡大を目標に戦っていたのだ。
16時 再出発バスでドゥエロ川を渡ったところにある、
サン・ファン・デ・ドゥエロ修道院へ 16時15分〜17時05分Monasterio de San Jan de Duero
12世紀前半に聖ヨハネネ騎士団によって建てられた救貧院の一部(レコンキスタの戦いで、アルフォンソ一世は ヨハネ、テンプル両騎士団の力を借りた)
ここの内庭回廊が有名。13世紀四つの異なる様式で建てられている。ロマネスクとイスラムが仲良く庭を囲んでいる。写真では知っていたが思ったよりも小さい。しかし回りに何もないせいか、スペインらしい明るさが気持ちいい。緑の庭に立って写真を撮らなければ、とあせりつつもいつまでも浸っていいた気持ちだった。
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左手前 ロマネスクアーチ、 奥 尖頭アーチ(少し 馬蹄形) |
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左 尖頭アーチ 右ダブル交差アーチ |
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左 ダブル交差アーチ 右交差アーチ |
上写真のように各角をhさんで 四種類のアーチで 中庭を囲っている。
下写真奥壁のニッチは 修道士のお墓だそうだ。四隅のアーチもいい。
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壁の修道士のお墓 すこうし、馬蹄形に見える |
尖頭アーチだが イスラムっぽく馬蹄形になっている |
柱頭彫刻も面白い
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奥が教会、上の三角屋根がホテルから見えていた
手前アーチは ロマネスク |
柱に縄模様のあるものもあった。横の教会に入る。
アプシス前には 左右にキボリウムの形をした祭壇がある。屋根が 右が三角、左が半球。半球はシチリアの教会を思い出させる。やはり イスラム由来だろう。柱の彫刻は 頂いた案内では、土地の彫刻家が製作したとあった。
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15世紀の修道士の墓石(北側の壁) |
向かって右には 受胎告知、ご訪問、御生誕など
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お告げと エリザベトご訪問 |
御生誕 |
羊飼いへのお告げ |
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マギの礼拝 |
エジプト逃避 |
イエスの復活 |
向かって左側にはヘロデ王による嬰児虐殺など
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ヘロデ王による嬰児虐殺 |
ヨハネの斬首 |
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右奥に 騎士 |
ケンタウロス、七つの頭を持つ龍 |
ハルピュイアみたいだが顔が男 |
左壁 横たわっているのは15世紀の修道士
ミカエルのドラゴン退治は イスラムを倒すことのシンボル
ほんの少しバスに乗って17時15分〜17時45分 サン・ペドロ大聖堂 Catedral San pedro
そのVに続く
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