9日目


10月15日

レオン滞在( レオン市内 と サン・ミゲル・エスカラーダ)

 



レオン(標高837m)  これまでずっとお天気はまずまずだったのに今日は雨

レオンという町の起源はローマ時代に遡る。紀元前1世紀にローマの第6軍団によって造られ(丘の上を長方形に削って)紀元後68年、第7軍団の駐屯地となり栄えた。鉄がとれたので、武器をつくることができた。この軍団は勇猛果敢(言い換えれば野蛮で狂気じみている)で知られていた。軍団長のガルバは後に皇帝になった。皇帝ネロは悪名高いが実はネロをたきつけたのはガルバだったそうだ。
レオンという町の名前も軍団という意味の言葉であるレギオンに由来する。

717年にはイスラム教徒の手に落ちたが回復、また破壊されたりしたが、914年にアストリアの王は都をオビエドからレオンに移した。その後もイスラム教徒の侵入はあったが、サンチャゴ巡礼路上にあることからも栄えた。13世紀には都はブルゴスに移された。

630分 起床 
7
45分~830分 朝食

   
   

930分 バスで旧市街中心部へ出発

城壁の一部も見たが写真は撮り損ねた。しかしサン・イシドロ教会の塔を撮った写真に少し写っていたる。(塔の手前の濃い茶色の丸い石積と木の向こう)
ローマの道があった。(現在は舗装されている)

   
 右は サン・イシドロ教会の塔  ローマ時代の道
 
 上左写真の拡大 木の向こうにローマ時代の城壁(大きい石がローマ時代その上の小さい石は中世)

ロマネスク行脚をするものにとってレオンの町での必見は、サン・イシドロ教会である。

940分~1155分 サン・イシドロ参事会教会

Real Basilica de Colegiata of San Isidoro   Saint Isidoro of Leon - Basilica  

Monestirs - Col·legiata de San Isidoro de León   こちらの方が探しやすいかもしれません。

 
 サン・イシドロ教会南面

もとローマのメリクリウス神殿があった場所に建てられている。10世紀前半の創建だがイスラム教徒によって破壊されたのち、11世紀初頭 アルフォンソ5世が再建。その後、娘のサンチャと夫のフェルナンド一世が石造りでロマネスク様式に建て替えた。この時フェルナンドは一時的にイスラム教徒に勝利したので貢納としてセヴィリヤから聖イシドロの遺体をもってこさせて安置。1063年聖遺物移送祝典、さらに娘のウラカが拡張1101年から。完成させたのはアルフォンソ七世と姉妹のドーニャ・サンチャ・ライムンデ(ウラカの姪)で1149年のことである。

ここでフェルナンド一世とかウラカでピンとくるのはエル・シドである。この教会ができたのはまさに、そのエル・シドが活躍した時代(エル・シドは幼いときからフェルナンド一世の長男サンチョの傍らで育った)サンチョは次の王になったが、ザモラ近くで殺される。それが弟(次の王)アルフォンソ六世の命だという疑いをかけたとして エル・シドは城を追われたのだった。

教会は16世紀にゴシック様式でさらに拡張されている。

まずは南の扉口の彫刻。二つある。

免罪の門 Puerta de Perdon (巡礼のための扉口だったのでこう呼ばれた)上写真右側

 
                           福音書を持つ聖パウロ                 鍵を持つ聖ペテロ


 
 昇天    キリスト降架     墓を訪れる三人ノマリア

タンパンには キリストの十字架降下を中心に向かって右に墓を訪れる三人のマリア(つまりイエスの復活)、左に昇天、上には香炉を振る天使。この彫刻は トゥルーズのサン・セルナンや サンチャゴ・デ。コンポステーラ大聖堂との類似が指摘されている。このしもぶくれのぽっちゃりした頬をみていると、確かに、と頷ける。タンパンの外側には 右にペテロ、左にパウロ

子羊の門 Puerta de Cordero (タンパン上部に子羊があるので)

 
 
 
 子羊の門のタンパン イサクの犠牲       母サラに見送られて家を出て、着いて靴を脱いでいるイサク

テーマは イサクの犠牲、中央にはイサクを刺そうとしているアブラハム、向って右は家を出るイサクを母のサラが見送っている。
左は上に神の手、天使が羊を差し出している。その左はハガルとイシュマエル、イシュマエルはハガルとアブラハムの子であるが、イサクが生まれたため野にやられ弓を射るものとなった、アラブ人の祖となったとされている。 
この図は イスラムに対するキリスト教の勝利、ともみられているそうだ。

三重のアーキボルトの両側は四角く区切られて 聖イシドロ(左)と聖ペラーヨ(右)。
聖ペラーヨとはコルドバで926年に殺された少年殉教聖人で、最初はこの聖人の聖遺物を祀るための教会として造られたのでここに彫刻がある。
上部には 黄道十二宮 (左が魚座)その下に楽師たち

中に入る。

多葉形アーチにイスラムの影響が感じられる。翼廊はロマネスク。柱頭彫刻は凝ったものだが暗くて手振れでよく撮れていない。椅子の下にパネルヒーターが設置されていた。奥にルネッサンスの祭壇

   
   ←写真の右側 多弁形アーチ
   
 西側  左写真の左側こちらは ロマネスクアーチ
柱頭彫刻は暗くて よく撮れていないが
   
   
北側奥がロマネスクの部分 壁には 石工のマークが彫られていた。

   
 ピンボケなので 小さく    壁は表面を漆喰(多分)で塗られているが 石の間に煉瓦を挟み込んで縞のように見える  

いよいよ パンテオンつまり王家の霊廟に入る。アルフォンソ5世やドーニャ・サンチャ・ライムンデなどの石棺が置かれているが、素晴らしいのは天井のフレスコ画。残念乍らカメラ禁止です。9年前にも来ていて、絵も覚えているが記憶しているより、図柄が大きい。天井が低いのでよく見える。ヴォールトの、パントクラトールや羊飼いへのお告げ、など懐かしく眺めた。旅行の予定表を見たとき また同じところに行くなんて、と思ったが矢張り来てよかった。 前はただ圧倒されただけだが、今回はじっくり楽しめた。

これは ここの写真集の表紙から借りました
 
 パントクラトールのキリスト
 
 あとで回廊に行ったとき格子の隙間から見えたので撮った。中央に 上の パントクラトール アーチに12か月の仕事

格子の隙間から撮った写真

     
帰りにそっとシャッターを
押してしまった 。このように
床には石棺が置かれている
 上は 最後の晩餐の一部分 奥は エジプト逃避  

それから(これは前回見ていない)階段をあがって、ミニ博物館へ。

チャリス、十字架、聖遺物箱など。特に素晴らしいのが聖イシドロの聖遺物箱(11世紀)、金のうち出しで創世記の物語が表されている。
(カメラ禁止なので本の写真を載せようかと思いましたがあまり多くはのせられません。教会のホームページの方がいいと思いますので、そちらに飛んでください)

  Museum of San Isidoro of Leon  
下の中央あたりの VISIT をクリックさらにtreasure をクリックすると、聖遺物箱や ドーニャ・ウラカのチャリスなどが見られます。(パンテオンの 壁画も見られますcryptをクリック))
なおこの聖イシドロの聖遺物(『レコンキスタの歴史』には 遺灰、となっている)は フェルナンド一世がセヴィリアを攻めたとき (イスラム教徒の)王は 貢納せざるをえなくて 渡されたもだ。(観光した時は遺骸ときいたような、灰というのはおかしい気がする)

それから回廊にも行った。この教会はローマ軍団の駐屯地の北西コーナーに建てられているので、いろいろな出土品がある。それらが回廊に陳列されている。

 
 
   
   bearer
この人物像を全開は ローマ兵と説明された。しかし写真をよく見ると四本指の腕が肩から覆いかぶさっている。 本(実は前回に買った)には ベアラーとあるので、熊男?と思ったが辞書をひくと運搬人とあった。本の説明には 熊の毛皮を着た第7軍団の正規の運搬人、と書いてある。
 左(拡大は 下に) この赤いのは 屋根のタイルで (煉瓦)第7軍団のシールがおされている。
   
   
   
   

ロマネスク時代のものもあった。

 
 
 
 フレスコ画も残っている
   
 聖母子、イエスの首がない  両脇の人物は誰だか分からない アーチ右側   天使らしい

教会を出て少し時間があるから、と近くのレオン博物館に行った。12時から20分ほど。

 そのⅡへ続く