2日目  3月7日((火)

レッジョ・ディ・カラブリア〜スティロ〜コセンツァ



今日は一日中、殆ど雨

430頃目が覚め520本格的に起きだす。開けないつもりのスーツケースをあけてしまった(今日の分はキャリーに入れてあるもので間に合うはず)のでやっと 640頃 身支度が終わった。

7:00  朝食

ベルガモットの蜂蜜があったのでつけてみたら柑橘系のさっぱりした味でおいしかった。ヨグルトもこってり、good

   
   

レストランは 4階で眺めがいいが、よく見たいとベランダに出たら外からは開けられない仕組みで大慌て。 ちょうど Fさんの姿がみえたのでガラス戸をたたいて合図、開けていただいた。

その後 外に出てみたが、風が強く 板張りのところに穴がいて危険なのであきらめて部屋に戻った。

 
 
 
 

レッジョ・ディ・カラブリア
この町には国立博物館がありリアーチェのブロンズ像や哲学者の像などギリシャ時代の彫刻が所蔵されていることで有名。南イタリアには紀元前78世紀から紀元前3世紀ごろまでギリシャ人が進出植民地としていたのでマグナ・グラエキア(大ギリシャ)と呼ばれている。レッジョ・ディ・カラブリアも紀元前8世紀に築かれたギリシャ都市で当時はレギオンという名だった。

もちろん当時はギリシャ語がはなされていたが、その後イタリア化してギリシャ語は話されなくなった。しかし一部地域ではまだ残っているところがあるそうだ。
博物館には時間があれば行たかったが、9時開館なので無理。 残念だった。

海上交通の要衝の地であることからこの地をめぐって争いは絶えず、ギリシャがローマ帝国に敗れ、ローマ時代となった後もローマ帝国が滅亡すると東ゴート王国の一部となった。 6世紀中ごろには東ローマ帝国の支配下に入った。しかし ロンゴバルト人が南下、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)と争い、モザイク模様となった。これらを統一したのがノルマン人。11世紀後半のことである。
1060年レッジョ・ディ・カラブリアはロベール・ギスカールの手に落ちた。

これから見ようとする教会はロマネスク時代のものなので、ノルマン時代ということになるが、建築、美術は先行するものをとりこんでいるので、ロンゴバルドやビザンチン要素を含んだものを観ることになる。

ノルマン王国、ノルマン王国の後継である神聖ローマ帝国(フリードリッヒ2世とその子マンフレードまで)、その後フランスのアンジュー家の支配下にはいる。 アンジュー家のお城というのも多い。

 
 

今いるところ、今日、明日行くところは 長靴でイタリアを例えるとつま先部分、カラブリア州である。 地図で州を黄色い線で分けた。この地図でみられるように山がちな地域である。

先にギリシャ語がまだ残っている地域があると書いたが、この地形のせいかトルコ軍から逃れてきたアルバニア人が隠れ住んだり、南からやってきた人もいて言語的には複雑でいまなお少数言語が残っている。
カルミネ・アバーテという作家はカラブリア山中の小村の生まれで、イタリア語は小学校に入って初めて習ったそうだ。

900 出発 左側に海を望みながら高速を行く。次々トンネルを抜けていく。 いつの間にか海が下の方に。 車内では山口さんが『古寺巡礼』を読んでくださった。

925頃 雨が強くなる。5分ほど。 トンネルを抜けると霧。オリーブ畑が続く。

 
 
 
 

山越えをして一度海(イオニア海)側に出てまた少し山に入って目的地スティロ に近づいていく。

   
   目的地スティロ近く

1100頃 スティロ Stilo 着(標高 386m スティロという言葉はギリシャ語の 柱 からきている。町ができたのは89世紀ごろ

すこし坂道をのぼって教会見学 
 
 

白く見えるところは イオニア海に連なる川で 昔は この町のふもとまで 船がさかのぼることができたそうだ。今は川原だけで水はなかったと思う。
案内してくださったのは発掘にも携わったという考古学者のロベルタさん。

ラ・カットリカ La Cattolica 11世紀(10?)http://www.cattolicadistilo.it/ (イタリア語ですが 写真が鮮明)

 
 

トルコから来たギリシャ語を話す修道士・隠修士たちがが作ったもの。彼らは洞窟に住み、ここに集まって祈った。(したがってこの教会は住民たちのためのものではなかった)

カットリカという名前はギリシャ正教の主聖堂(カトリコン)からきたもの。

一辺が約5mの立方体の形をした教会 で今回の旅日記の表紙にみられるようにギリシャ十字形になっていて5個ドラム型に突き出たドームがのっている。

典型的なビザンチン様式、プーリアロマネスクがはいってきても ビザンチンの影響が強く残っている。

柱は古代建築の再利用。一つ柱頭が下についているものがあるが、これは異教のものなので、下においたのだそうだ。 

   
   

柱にギリシャ文字 神は我々に出現した、と彫られているのがあったが、どうやら写真撮り忘れ。

壁画は 入って左手の壁に一番多くのこっているが、後代描き重ねられて10、 12、 1214、 15世紀の四層になっている。

 
 

中央の「聖母の御眠り」は15世紀、フィレンツェの画家によるもの。上はマリアの魂(小さな人間であらわされる)が天に運ばれるところ。

フィレンツェの画家が描いてもビザンチンの描き方。西側だと聖母は昇天する(聖母被昇天)。東は魂だけ。
下マリアに手をふれようとしているイスラム教徒の手を切ろうとしている。
左側の お告げのほうが古い、 ビザンチンスタイル。 ビザンチンは目が切れ長。
右はローマ兵士なので ここにもとは磔刑図があったと思われている。後ろは 聖二コラ
すぐ下の絵はすこし時代が新しい。

   
 
重ねられていたことを 示すように残されているところがあった。
   
 グレーのところに茶色、青が層になっている  これも塗り重ね例

 
 

   
 聖パウロ?  聖ニコラ?
聖パウロ? 
そのほか 様子が わかるように写真を 並べておく。

   
   
 
 

ここを出て降りていく途中13世紀からあった女子修道院 跡(1783年の大地震で崩壊)を見た。

 
 
   
   

このように板敷の遊歩道を下りて行った。

 
 

雨が本降りになってきたが見晴らし台まですこし町中を歩いた。
ドゥオーモ (ノルマン・ビザンチンスタイル)の前を通った。 なぜだか、足首だけが飾られている。

   
 ドゥオーモ入口  イルカの噴水

見晴らし台のから隠修士たちの住んだ岩壁の洞窟を見た。黒っぽい穴のようなところ、 左端に半分だけ写っているのもそう。これでは見えないが道を左へ辿るとカットリカに行きつく。右端には小さな教会もある。

 
 

雨は だんだんはげしくなってきた。 黙々とあるいて広場へ。 途中、 イルカの噴水(14世紀)を見た。

13001420  昼食レストラン イル・カステッロ

郷土料理の前菜 サラミ、 オリーブ、 ズッキーニ、茄子、ンドゥーヤパン、ゼポラ(揚げパン)ポルペッタ・デ・メランザーニ(コロッケ)キノコ

フィレヤ(パスタ)&ンドゥーヤ、 デザート ティラミス(写真撮り忘れ) 

   
   

ベルガモットリキュール(カラブリア特産)を頼まれた方がいらして、少し賞味させていただいた。 松脂のような香り、さわやかで白濁した緑色、甘くて強い。

朝のベルガモット蜂蜜とともに買いたいものだったが、結局どこにも売っていなかった。 

ベルガモットはオレンジの大きさの丸い果物で色はレモン色。 カラブリアの海岸ちかくでだけ栽培されていて非常に貴重なものだそうだ。

1420出発、 また海へ出る ひたすら寂しい海景色

 
 

途中 16:00頃 サービスステーションでトイレストップ  リキュール入りチョコ(ベルガモットではない)やからし味つきフィレイヤ ンドゥーやらしきものの瓶詰(とても辛かった)などを買った。

今度は また ティレニア海 やはり 海はあ〜らう〜み だ。

1720頃 コセンツァ のホテル着 イタリナ・コセンツァ

市外なので、特に見たいものはこの近くにない。隣はショッピングモールで地下に大きなスーパーがあった。 
そこで はちみつ探し、ベルガモットともう一種類 スッラの蜂蜜が買いたかった、が、ない!スッラは アバーテの小説の影響、春になると丘が一面、この花で赤く染まるそうだ。
チーズが各種あっておいしそうだったが、旅初日に買うわけにもいかずあきらめた。シラスのオイル漬け瓶詰(アタリ!) ハーブティーのティーバッグ などを買った。

1930 ホテル内レストランで 夕食

ワインは 6人で地ワインのチロをわけあった。飲みやすくておいしかった。

前菜 に シラスの辛し和えが 追加された(昼になかったので)

パスタ(ペンネ) メインは鶏の野菜添え  レモンが効いておいしかった。 デザートは マチェドニア(写真撮り忘れ)

   
   
   
 シラスの辛し和え  
お部屋、広さはちょうどいいが、お風呂がダメ、お湯がぬるく、 途中で水になるかと心配で石鹸はつけなかった。 12時前に寝た。