4日目 3月9日(木)

ターラント〜ブリンディシ〜オトラント



予定では今日はターラントの観光のあとすぐに、宿泊地オトラントに向かうことになっていた。
しかしロマネスクファン4人が「ブリンディシに行かないなんて残念」という話をしていたのを添乗員の山口さんが聞いて、会社に立ち寄りの許可をとってくださった。
オトラントに行くときブリンディシを経由して行くしオトラントでは連泊なので少し到着が遅くなっても大丈夫と判断されてのことだ。
その結果 会社側も 許可だけでなく現地ガイドまで手配してくださる という夢のような事態になったのだ。

山口さんは時差の関係で朝2時まで起きていてお電話してくださったそうだ。 大感謝!!

ターラント という町は紀元前8世紀 スパルタからやってきたギリシャ人によって建設された。紀元前4世紀前半に最盛期を迎え 人口30万人だった。
が、紀元前272年 ローマに降伏。ブリンディシとの市場競争により衰退、その後、ゴート人、ロンゴバルド人、サラセン人にあいついで征服されたのち、ノルマン時代、シュタウフェン時代となる。
ギリシャ時代のもので地上にあるのは ポセイドン神殿の柱だけで、他はみな地下。

町は衰退して 17世紀には人口千人足らずとなったが、11860年以後、軍港と海軍工廠が建設されたことにより再び 人口が増えてきた。

ここに来る前 『マグナ・グラエキア』(ギリシャ的南部イタリア遍歴)GRホッケ著 をガイドブック代わりにざっと読み返した。

この本での旅はターラントから始まり途中またターラントに戻る。かなりの紙幅がターラントにあてられている。それほど古代に関心を持つものにとっては魅力的な場所なのだろう(ここを起点として旅をするのに便利ということもあろうが)
本が出されたのは1960年(日本では96年)。1937年から何度も訪れた南イタリア旅行から生まれた作品である。まだ観光化されていない、経済的に取り残された地域の旅、、、過去の亡霊が立ち現れやすいような、、、。これを読んだせいか、私はこの町ではロマネスク探しというより、ギリシャの残り香を求めたい気分でいた。

700 朝食  今日は一日中晴天
830 出発

 
 

900 国鉄ターラント駅前(地図上方)にバスを止めて徒歩観光開始。上地図にあるように今日はこの島内部(黄色い星印)を観光する。 
もともとは島ではなかったが 運河を掘って内側の湖と外海をつなげたので 島になったのだ。

地図でいうと 向かって左が外海 右が内海 

 
 外海を見ている、晴れているので海の色がひときわ美しい

橋をわたって細い道(緩やかな坂道)をあるいて サン・ドメニコ・マッジョーレ教会へ 

   
   
13世紀にフリードリッヒ2世の命で建てられたが、その後何度も改修されている。ファッサードは14世紀初頭ゴシックに変えられロマネスクの薔薇窓がある。中もあまり興味あるものはなかった。

回廊には教会の中から直接入れず、外からぐるりと回ってサン・ドメニコ修道院から。

通りがかりの部屋には 先史時代の発掘品が少し展示されていた。

 
 

中庭 小ぶりで落ち着く。回廊の床は 中世のまま。 

ところがここの下は 紀元前8世紀、ギリシャ時代のアクロポリスだったところだそうだ。端の方に掘り下げて、遺跡の一部が見えるようになっていた。

   
 入口あたり  中世のままの床
 
 
   
   
細い道を辿る。 洗濯物が翻って南イタリアらしく庶民的。
   
   
ここはすてきだな、と思ったら(上右写真、右側) ホテル・アクロポリス ここの屋上にあがらせていただいて 街を俯瞰した。

すぐ手前にドゥオーモが見える。(奥のドームはモンテオリヴィエト教会)ここから見ると、外部がロマネスクであることがよくわかる。また円柱がたちあがったようなドームはビザンチンスタイルだ。(スティロ!)

 
 
ホテルを出て上の写真でいうと左側の通りをドゥオーモに向かう。
 
  側面は ロマネスク
 
 
残念しっかり撮れていない、彫刻がもう少しはっきりしていればいいのに、 

ドゥオーモ  Basilica  Cattedrale di San Catald

 https://www.cattedraletaranto.com/home

11世紀末に 聖カタルドを祀るために建てられたが、その後バロックに改変され、当時のロマネスクは側壁など一部分にしか残っていない。
正面は完全バロック、 さらに中に入ると、格天井!17世紀に追加されたもの。

   
   
しかし アーチなど構造はロマネスク。円柱は異教の神殿からうつされたもの。
   
   
12世紀の床モザイクが一部のこっていた。アレクサンダーの罪、美徳と悪徳と メモにはあるがよくわからない。
   
   
 
 

奥に サン・カッタルド 礼拝堂。 ゴージャス! の一語に尽きる。 大理石の象嵌細工と 1619世紀の彫像。 天井のフレスコ画は パオロ・ディ・マッティによる(18世紀)

 
 
 
 
このあと、大聖堂裏あたりの ギリシャ時代の地下遺構に行った。 紀元前8世紀ごろの遺跡だが、初期キリスト教時代には墓として使われ、中世にはオリーブオイルの製造所だった。 どれが何だかよく分からない、奥の方はお墓と言われたが。
   
 入口の看板  
 
 
ターラント大学の中庭、 ここは14世紀に建てられたフランシスコ会の修道院の中庭。
   
   
中央にターラント市の紋章 タロス神(ターラントという町の由来)とイルカが描かれている。現地ガイドさんは タロス神をポセイドンの息子、と言っていた。(ポセイドンの息子ならトリトーンではないかと思うのだが、同一人物(神)?) 
ドゥオーモ通りをさらに進むと ギリシャ! ドリス式の柱頭を持つ円柱が見えた。高さはさほどではない。
 
 
ターラントの古代については国立博物館に展示があるのだが、そこにはいかなかった。しかし下記のホームページで 写真が見られる。
http://www.museotaranto.it/museo_territorio.htm/   
ポセイドン神殿、といわれていたが、アフロディーテを祀った神殿だったかもしれない、というところから現在は ドリス神殿 Tempio dorico と呼ばれている。
 
 
柱は紀元前6世紀のもの。2本と基台が一つしか残っていないが、フロントに6本縦に13本配されていたそうだ。 また 6世紀以前に存在していた木造神殿の木片も発見されている。
紀元前2世紀には廃墟になり、そのあとはキリスト教会に、6世紀には 穀物貯蔵庫になり、10世紀にはキリスト教会。 
14
世紀には陶器の製造所になった。 中央に 当時の窯が残っている。

もう島のはずれにきている。 向こうに アラゴンの城。 

 
 
ナヴィオリ運河 向こうは マーレ・グランデ(外海)
 
 
マーレ・ピッコロ(内海)沿いに歩く。風が非常に強い。八百屋、 魚屋の屋台が出ている。
 
 

マーレ・ピッコロは もともと湖だったところを 運河で外海とつないだので 汽水になっていて、非常においしいムール貝ができることで有名だが、そのムール貝を売っている。 そのとなりでは 雲丹を 取り出していた。 南イタリアでも雲丹がとれるなんて、 それにこちらでも雲丹を」たべるのだろうか。

   
 
   
 雲丹を取り出してそのまま瓶に詰めている、ちょっと 衛生状態が心配   昼食レストラン

昼食レストラン到着 Pranza   見かけがちょっと気になったが、 中は ちゃんとしていて、どうやら有名店らしい。

1200〜 1340 昼食

ムール貝 非常に美味 シーフードパスタ すこし塩辛かった キーウイの水ようかん風ゼリー (フラゴイラ・エ・キウイ)

   
   
   
   

バスに乗って ブリンディシに向かう。途中 水道橋らしきものが見えた。