5日目  3月10日

オトラント滞在
(オトラント大聖堂)



オートラント Ótranto滞在

オートラントも古くからある港町で十字軍や聖地への巡礼者がここから海へ乗り出していったところ。
中世、ビザンツ帝国とランゴバルド諸侯との争いの末 ロベール・ギスカールが1068年この地を征服した。 

3時半に目がさめて4時に起きだして日記書き

730~ 朝食

   
   

連泊で荷物出しがないので気分的にもゆったり。 食後海辺へ散歩に出る。歩いて数分で海岸に出られる。途中Fさん、Mさんと一緒になった。
光の状態によって刻々と色を変える海、ずっとずっと見ていたい景色だった。

 
 
 
 向こうに見えるのはオトラント旧市街
 
  

930 バスで港まで行き そこから徒歩でオートラント市内観光(ホテルは下写真でいうと 左上の方)

 
 

右手に港を見ながら海岸通りを歩いていき、まず見たのは一瞬何だかわからなかったが、難破船。第二次大戦時のソ連軍の船。

 
 難破船のオブジェ

1999年 100人のアルバニア難民が不法入国しようとしてイタリア海軍と衝突、海上で全員死亡という痛ましい事故があった。
こういうことが二度と起こらないようにと言う願いを込めておかれているオブジェ(対岸のアルバニアまでは90キロメートル程度である)。
古来から対岸地域との行き来が多かったが、それが現在まで続いていることの証のひとつ。これは悲惨な歴史の証であり、今も起こっている地中海を渡るシリアや北アフリカのボート・ピープルの惨事にも思いをめぐらせ心が寒くなった。 

海側の城壁から旧市街に入る。

   
   アーチをくぐったところ もとは教会だった

大聖堂 La Cattedrale di S Annunciata,  Otranto

ノルマン人たちがこの地を征服して建てられたこの教会は1088年に献堂式が行われている。
教会内からのクリプトへの通路が修復中らしく、まず北側の入口から入ってクリプタを観た。 1000

広い! 42本の円柱、材質それぞれ違うし、彫刻が施されているもの、そうでないもの、またその模様も様々。柱頭も色々。
石材は古代ローマ ビザンチンの再利用、南イタリアではどこもそうだ。 材料はそのあたりゴロゴロしているのだから。

密集した柱がコンスタンティノープルのブルーモスクを思わせる、と買ってきた本には書いてある(1480年トルコ軍襲撃により モスクに改変されたことが関連している?)が、現地ガイドは コンスタンティノープルのシスティナ教会をまねている、と説明。このシスティナ教会なるものがわからない(増田朋幸氏の本を 二冊調べただけだが)

 
 
 
 

柱頭をいくつか、アカンサスが多かったが、そうでないものを(暗いのに、急いでシャッターを切ったせいかボケ写真が多くて残念)

     
     

壁にはフレスコ画も少し残っている。(殆どオスマン・トルコによって破壊されたので) 

     
     聖母子  最も古い(12世紀)

その後に描かれた新しいいものもある。

   
   

一度外に出て大聖堂正面から中に入る。 正面の薔薇窓は15世紀

多少ともロマネスク教会に関心をもつ人なら殆ど全員、南イタリアに行くならオートラントの床モザイクを観たい!と 願うに違いない。ここの床モザイクは非常に有名なのだ。
もちろんロマネスクに関係なく超有名観光スポットなので、クリプトは私たちgroupの独占状態だったが、こちらは他に観光客がいた。

   
   

入ってふと下を見ると、もうモザイクを踏んでいた。
モザイクは1160年代、大司教ジオナータが命じてビザンツの修行者と言われるパンタレオーネにつくらせたもの。2年かけて一人で作ったそうだ。

床一面がモザイクで覆いつくされているのだが、無情にもぎっしり長椅子が置かれていて、かつ中央通路手前にはロープが張られているので両端からしか見ることができない。
仕方がないので買ってきた本から全体写真を。

   
 身廊手前  身廊上方
   
 祭壇手前と右側廊  身廊

全体が一望のもとに、というわけにいかないのだが、 中央には一本の木が伸びている。その根元に2頭の象がいた。 
別の日の説明で2頭の像は 始原の愛の象徴とも考えられている、という話を聞いた。 
下写真は 象の両脇の騎士たち 尻尾がからみあってロマネスクらしく遊び心満点

 
 象の右上、 上体は切れているが靴が片方ずつ
   
   

はしごにのっているのはバベルの塔を作っている人 下右はノア(椅子の足がモザイクを傷めないいか心配)

   
   

前のほうに行って アダムとイヴ、 楽園で楽しく遊んでいる、向こうに(はっきりしないが)楽園追放 

 
 

右側に移動して、 カインとアベル、 その向こうに アーサー王 

 
 

途中の椅子の下に アレキサンダー大王(無残!完璧な姿で見たかった)

   
   

その上の方こにもアダムとイヴ、 二股人魚などもあった。 

   
   

南翼廊も見たが そこには 地球を支えるアトラス がいて地球はオプス・セクティーレの技法で作られている。

 
 

祭壇障壁、いつの時代の作品だろう。 最後にモザイクを二つ

     
     

どちらかというとシリアスではなく愉快系で、楽しいモザイクだった。 載せたいものは多いのだがきりがないのでこのあたりでやめにする。

アトラスのモザイクの奥には 1480年にオスマントルコの襲撃があったのだがその時亡くなった800人の犠牲者を祀るチャペルがあったのだが、モザイクに気をとられて見逃した。

旧約聖書、アーサー王伝説、動物誌 色々な要素が入り込んでいる。
この多様なものを前にして一体これは全体として何を表すのか?気になるところだが、金沢百枝さんは、「地図」 と「世界史」(我々はどこから来たのか、われわれは何者か、我々はどこに行くのか)をあらわしているのではないかと暫定的に考えている、と記している。 

現地ガイドは 作者がビザンチン僧(ギリシャ系)、キリスト教の聖堂でありながら、多神教の十二宮なども描かれているので、宗教の共存、融合が見られ、そうしてこのことからオスマン・トルコ による破壊を免れたと考えられていると説明していた。

大聖堂を出てからのことは そのⅡへ