6日目 そのU

バーリ サン・ニコラ教会



1205頃 バーリ到着

まず 新市街の レストランへ Il Sottosopra

ミネストローネスープ オーベルジン・パルミジャーノ(茄子、ハム、トマトソース、モッツアレラチーズ、パルメザンチーズ をラザニアのように層にして重ねて焼いたもの、)スポルカ・ムーシ(汚れた口、という名のお菓子で 手でいただく)どれも美味しかった。

   
   
   
   

バーリ Bariは 西ローマ帝国滅亡後は ランゴバルト族のベネヴェント候国とビザンチン帝国が争奪戦を演じ、8751071年まではほぼ常時ビザンチン帝国の支配下にあり、南イタリアにおける東ローマ帝国の首都となった。が 1071年にノルマン人が支配することになり、この数年後にロマネスク様式の教会が建てられることになった。
バーリの港もまた、十字軍や聖地巡礼への出発港であった。

1330〜観光開始

グーグルマップより、旧市街は半島のようにつきだしているところにあるので三方海に囲まれている。

 
 

小道を行く。 手作りパスタが売られている。

   
   

お城(カステッロ) ノルマン時代の城をもとにフリードリッヒ2世が築いた。バーリにおけるホーエンシュタウフェン家の支配をもっとも明確にしめすものである。しばし眺めたのち 大聖堂へ、しかし閉まっている。

 
 

主目的のサン・ニコラ教会のオープンが 1400とか1430なので先に大聖堂をということだったが、 どうやらこちらは 1500〜らしい。入れないので周りを眺める。

イタリアというのはお昼休みが長いので観光客が目いっぱい見て回るには不便だ。

大聖堂 Cattedrale di San Sabino
11世紀前半に建てられ、12世紀半ばに破壊されたものを大司教ライナルドが再建。

   
   


西正面から北側に回ると、高くはないが巨大な円塔がある。そこをまわって東側へ、 こちらの薔薇窓の方が繊細。

 
 大聖堂東側

 

   
 大聖堂北側  サン・マルコ教会

町の散策。小道を行くうちにヴェネツィア・ サン・マルコ教会の横を通った。薔薇窓の中心に小さくて分かりにくいが、ライオンがいる。このあたりヴェネツィア商人がはばをきかせていたのだろう。

行きたいところがあれば言ってください、といわれて、サン・グレゴリオ教会をお願いしたら、今修復中ですよ、とのこと。 サン・二コラの前だが 行ってみると矢張り工事用の幕がすっぽりかかっていて、全く見えなかった。

サンタ・マリア・デル・ブオン・コンシリィオ教会、 廃墟。 古代ローマ時代と初期キリスト教時代の円柱が残っている。 床モザイクは1112世紀

   
   

しばし 海を眺める。風がとても強い、そのため空は真っ青だが海は波が高く、海岸近くの水の色がきれいではなかった。

 
 

そろそろ時間なので サン・ニコラへと向かう。 海のそばだ。 

サン・ニコラ教会 Basilica San Nicola

バーリの商人たちが現トルコのミラから、聖ニコラウスの聖遺物を持ち帰った1087年に建設が始まり、1197年に献堂式が行われた。プーリア・ロマネスクの典型とされる教会。

教会、 東北  西正面

   
   西正面

0651 アプシスの窓(海に面している側)

北側 ライオンの門、ここの彫刻が素晴らしい。11世紀から12世紀初めに造られた。

   
 アプシスの窓(上写真、左に見えている窓)  北側 ライオンの門

109863日 十字軍がアンティオキアを陥落記念とかんがえられ、モデナの アーサー王物語の影響も言われている。ドラゴンやハルピョイア、などの幻想動物も面白い。

 
 ライオンの門上部
 
 

北側上部ギャラリーの柱 柱頭の形が横から観ると逆三角形。
彫刻のおもしろそうなものを拡大してみたがやはり ボケている。

 
 

西正面  (写真は先に載せた)

両側に塔が建っているが高さがない。未完。 これをみて昨年見たばかりのオットー朝の多塔式教会を思い出した。オットー朝の教会の塔が教会そのものに組み込まれていく(Gothicに多い)ことになるのだが、その例だと思った。

これについて 小学館美術全集Romanesque338ページ)では 〈後陣左右に物見の塔を設け、教会四隅に塔を持つ形式であったと、推測されるのはノルマン起源の建築を想定することによっている。〉 とある。ノルマンディーの建築はもちろんカロリング、オットー朝の影響を受けている。

メインの扉口 

   
 

プロテュルム(柱廊玄関) 柱を支えるのがここでは通常のライオンではなく雄牛になっている。 TOPにはスフィンクス(これがあるのも面白い)このスタイリッシュな顔がノルマン人による)征服でもたらされた慰めを表している、 という。 

扉のすぐ上、両サイドにビザンチンスタイルの天使。

 
 

アーキヴォルトの中央には 太陽の二輪馬車 皇帝が片手に太陽、もう一方の手に勝利の棕櫚の葉をもっている。これは ノルマン人の対ビザンチン、対ムスリムへの勝利の熱狂が創らせたもの、と買ってきた解説本にはある。中に入る。

 
 

中に入る 。 平面図、ビトントやバーリ大聖堂と同じように東側を囲ってある。

   
   

15世紀の大地震のあと身廊を横切る形で3っつのアーチがかけられ、それを支える円柱があるので、複円柱のように見える。

このアーチが邪魔。天井も17世紀後半にバロックに変えられている。聖堂全体バロック化されたのを剥がしてもとのロマネスクを見せている。天井にさがっている、シャンデリア風の明かりはテラコッタ製。(初めて見た)

右側廊

   
 

内陣 床は12世紀。写真集で観ると壇上(長老席)にはモザイク装飾が施されていることがわかるが近よれないので 全く見ることが出来なかった。

ギボリウム(州内最古のものとされている) 司教座、も同時代、

 
 

このエリア大司教の司教座がこの教会の見どころ。ところが 祭壇の奥にあるのでまともに見られない。(中央、赤い座布団の乗った白い椅子)仕方がないから 買ってきた本から写真拝借。    

   
 司教座(ヒーヒー言っているのが聞こえそう)  

横のリコ・デ・カンディアによる三幅対壇画(1451年)が美しい。福音書記者ヨハネと聖二コラの間に聖母子。

この後、クリプタに降りたが写真が多くなってきたので そのVに