6日目  そのV

バーリ(サン・ニコラ教会)〜ビシェリエ



クリプタに降りる。
交差部の下にある。30.69 ×14.81

聖二コラの墓所であり、1089年にできた。エリア大司教が招いた教皇ウルバヌス2世が聖二コラの聖遺物を安置した。(ウルバヌス2世は1096年の第一回十字軍を呼び掛けた人物。十字軍の通過はこの町の名をますます高めることになった)

下写真、 左側の人だかりはウロシュ三世デチャンスキ(下右写真)のイコンがおかれているのを見ている人たち。
このウロシュ三世、その子の時代、セルビアはバルカン半島の西南を占める大国だった。ウロシュ三世はデチャニ修道院を建てた人。
ビザンツ帝国もペロポネソス半島だけで狭くなっていたころで、セルビアは当時ビザンチン文化の担い手だった。
 

   
   

クリプタはお決まりのように、古代ローマやビザンチンの柱で支えられている。26本の柱
聖二コラの奇跡の力で運ばれてきたという円柱もあった。癒しの効果がある、というので巡礼者が触れていくそうだ。

     
 聖二コラの奇跡の柱    

柱頭彫刻は 彫りも良く素晴らしかった。 
   
   
   
   

クリプタの東側 チャペル 196265年代にバチカン公会議によって 1054年の東西分裂の解消、 エキュメニズムの推進という考えのもとに造られた。

 
 

今日は 土曜日のせいか、かなり観光客というか参拝者が多い。これまでどこでもこのような人出にであったことがなかった。 簡単に祈りをささげている信者の姿も多くみかけたが、一人とても長くお祈りしている青年がいた。信仰心のない私は(それぞれの祈りの心は大事にすべきと考えてはいて、邪魔にならないよう、失礼に当たらないよう気をつけてはいるつもりだが)「若いのに、、、何をそれほど熱心に祈らなければならないことがあるの、、?」 「何かつらいことでもあるのかしら?」 つい余計なことを考えてしまった。悩みがなくても長時間祈りをささげる人もいるのだとはろうけれど。

大聖堂が開かないので、どうするか? ここは椅子があるので休憩がてら鑑賞、ということになったが、でもそのうちもういい、という感じになってきて、インフォーメーションセンターに行った。トイレ、とか本を買ったり。
 
そこで大聖堂が開くのは16時という情報があった。
さあ、どうする?どこか行きたいところは?と相談。
ヴァリーザ教会に行きたい、と前に言っておいたが、遠そうなので遠慮はしていた。
しかし、この際そこへ行きましょう、ということになって行った。さほど遠くはなかった。(旧市街は狭い)
海に面したフェッラレーゼ広場にある。 下写真中央

 
 ヴァリーザ教会(中央)

後陣がかわいくて、見に来たかいはあった。
もう教会として機能はしていない(コンサートなどに使われるらしい)

周りの建物が迫っていて片側だけ横を通ることができたが、柵でいい写真は撮れなかった。

そのあとぶらぶら歩いて大聖堂へ行ってみるとなんとお葬式! 町のVIPの方が亡くなられたそうで、会葬者がひきもきらずの状態、ともかく中へはいったが、身動きできないほどの人々。到底クリプタにはいけそうにもないので5分くらいして出た。

 
 バーリ大聖堂

すこし早いがもうホテルに向かいましょう、ということで ビシェーリエ のホテルへ。

バスの中で「何か質問は?」 と聞かれたので こんな質問おかしいとは思ったが「バーリっていつもこんなに風が強いのですか?」 と聞いてみた。 ここ3日のことで いつも、というわけではないとのことだった。 

1720 ホテル ニコテル・ホテル着

シービューのお部屋。 ただ荒れているので海は真っ青ではない。

   
 

私はバーリでなくビシェーリエに宿泊、ということになった時点で ビシェーリエの教会を見る、あるいはカノーザまでタクシーで行ってボエモンのお墓を見る、というプランを練っていた。

しかし、寒い! ホテルに入ったらもう出かける気力がなくなっていた。 数年前までなら考えられないような気力、 体力の衰え。

それで夕食までの間にシャワーをあびた。(熱いお湯がたっぷり出た)。

しかし ホテルのレストランが寒くて、ショールかコートをもってくること、というおふれ、 

前菜、ペトラ(揚げジャガイモ)プルステージ(パイ)、メッツエマニケ・パスタ、 シーバスのフィレとポテト、 ミックスサラダ、 パンナコッタ 
値段とか メモには書いてないが、ワイン、エスプレッソも頼んだ。

   
 ペトラ(揚げジャガイモ)プルステージ(パイ)  
   
 シーバスのフィレ、 ポテト