2日目 そのⅡ

 ゴットランド歴史博物館続き


 11世紀 バイキングシップの旗
   
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この龍組紐の線刻に注目!船のへさきの龍頭と同じ役割か? 

 
 磔刑
 マリア像↓12世紀末
   
   左オジャ教会のマリア像

12世紀末 オジャ教会の洗礼盤 オリジナル 

   
   
   
   
12世紀の洗礼盤(リンデ教会)かなり風化してしまっているが イエス生誕の場面
   
   
   
   

もともとは なにだっかよくわからないが

     
 バックル
 
     マスク2世紀後半
右下 マスク2世紀後半、ローマ騎兵のマスクがどのようにしてゴットランドに来たのかは不明

博物館入口の騎士像
 
 

上記の本では他の国のものが刺激になって造られた形もある、として 騎士像としては ドイツ・チューリンゲンの石碑をあげている。(こちらは槍を上に構えているが)
私は新潮社 人類の美術 『民族大移動期のヨーロッパ美術』 カバーの〈槍を下に構えた騎士〉7世紀ロンゴバルド美術(ベルン美術館)を思い浮かべた(実物は残念乍らみていないが)

16:20頃 博物館を出て市内観光  

ここでゴットランドとヴィスビ―の歴史を少し。

ゴットランドの名の由来を 本書『ゴトランドの絵画石碑』ではゴート族であるとしている。
ゴート族は スウェーデン本土の現ヨータ地方から移動して(ここでゴットランドを経由して)ポーランドの ビスワ河口に定住していたが、100年代後半にカルパチア山脈の東側を通って、一部はアゾフ海沿岸に(東ゴート人)一部はドニエストル河口(黒海沿岸)に(西ゴート人)その後 民族移動期に西方へと移動していった。

この説は、遺跡減少 を民族移動を裏付ける資料としているが、集団名と地名の類似、および伝承を基礎にするにとどまっているとして退けられているようである。
山川出版社『北欧史』によると
(遺跡減少は民族移動のため、と考えられていたが、疾病流行や、気候悪化や連作障害による土地の廃棄など、人口減と居住地域の変化を原因とする説に傾いている)

北欧は約13000年前までは暑い氷床に覆われ、大陸とつながっていた。
約12000年前、気温が上昇し氷が解け始めた。気温の上昇によって海面と陸の両方が上昇し、その速度の違いからスカンディナビアは一時ブリテン島、アイルランド、ヨーロッパと地続きだったこともあった。
約8500年前 スカンディナビア半島は大陸から分離。氷が溶け始めて人が住むようになった。最初は狩猟や漁猟、ついで農業や牧畜がおこなわれるようになった。

島は平坦で最大高度82m

青銅器時代(紀元前1500年~500年)の発掘物から、当時すでに大陸との交易関係があったことがわかっている。

時代は下って8世紀末~11世紀のヴァイキング時代 ゴットランド人、スヴェア人(スウェーデン中部に住む人)は西にも向かったが主に東に向かい、カスピ海、黒海方面に行った。
王や地域首長がイニシアティブをとったといわれ、遠距離交易の要素が強かった。
内政を確立したうえで外に乗り出すのではなく、遠征(対外的な略奪や交易)が王権形成の基礎となっていた。 

スカンディナビアから来たルーシ人が、ノヴゴロド、ついでキエフを支配した、という ロシアの歴史をおもいだした。。
リューリクが実在のヴァイキングかどうかは疑わしいそうであるが、スウェーデン・バイキングがロシアの政治史に大きな役割は果たしている。

ゴットランドの発掘品として東方との交易を物語るイスラム貨幣が多くの量みつかっている。
ゴットランド人は(はっきり何年かわからないのだが)ノヴゴロドに「ゴート商館」を持ち、ロシアで得た毛皮や蠟などの仲介貿易をやっていた。
ゴットランド島民は 農業をしながら、交易品取引をする「農民―交易商」 だった。彼らは片手に秤を片手に鍬(多分、正確な言葉を聞き洩らした)を持っていた、と言われている。要するに損得勘定ができる人々だった、ということ。 

私は数年前にバルト三カ国に行った時、エストニア、ラトヴィアに対する十字軍による殺戮の歴史についての本を読んで、北欧はどうだったのか関心があったが、この交易の民、という要素が明暗を分けたのだな、と思った。
キリスト教をうけいれることの損得を考えることが出来た人々なのだ(宗教心のない考え方とおもわれるかもしれないが、一般の民にとって、やおろずの神でも ただ一人の神でも、そういうことはどうでもよいことであったはず)

ところで、商売でうまいことをやっているのを周りの国々は指をくわえてみていたか?

ヴィスビ―はバイキングの港であり、交易拠点でもあった。ここに北ドイツの商人たちがやってきたのは1150年代。13世紀に入ると、北ドイツの商人は、ロシアのノブゴロドに自分たちの商館を建て、ヴィスビーに家や倉庫を建て、1280年にはヴィスビーの町を取り囲む輪壁を建て始めたのだ。このためゴットランド島の農民たちは、これまでヴィスビーの町で自由に交易ができたのが、壁の中にはいるために関税をはらわなければならなくなった。内戦となったが、壁は壊されることなく、島民の交易活動は終わることになった。
しかし北ドイツの商人たちも、ハンザ同盟がバルト海域の交易を支配するようになって力を失っていき、ヴィスビ―はリューベックを盟主とするハンザ同盟都市のひとつとなった。

スウェーデン自体長くデンマーク領であったが(1397年カルマル同盟~1523年グスタフ・バーサによって独立) ゴットランド島は1645年(30年戦争の頃)にスウェーデン領となった。

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