9日目 3月20日(火)

スコピエ滞在  スタロ・ナゴリチャネ〜バニャニ村


 
晴れ時々曇り

スコピエSkopije)ローマ時代は スクウピ とよばれた。
395年にローマ帝国が東西に分かれると、ビザンティンの支配下に入り、その後ブルガリア、セルビアの支配を受け、1392年からはオスマン・トルコの支配下に入った。
第一次大戦後ユーゴスラヴィアに組み込まれたのち、1991年にはユーゴスラヴィアから独立したマケドニア共和国の首都。

545頃から身支度 
650頃 朝食

900出発。

1010頃  スタロ・ナゴリチャネの 聖ゲオルギオス聖堂  Staro nagoricane Sveti Giorgi

ステファン・ウロシュ二世ミルティンによって1313年建立。(11世紀の三廊式バシリカを5ドームの内接十字式聖堂に改造。
フレスコ画は ミハイルとエウティキオスによる。131618年。

   
   平面図
 
 手前は 古い外ナルテックス

鍵あけてもらうまで しばらく庭を観る。古い墓石が面白い

     
    
   
   

はいって アプシス方向を見る。
アプシスには 聖母子、その下に 使徒の聖体拝領(明かりでよく見えないが)

   
   

使徒の聖体拝領

 
 

西壁 聖母の御眠り ベッドの下に手を切られたユダヤ人イェフォニアスが描かれている。またその上には昇天するマリアも描かれている。
西ヨーロッパ側の絵では 被昇天のマリアが描かれるが、東ではあまりみかけない。(カストリアでは聖母の御眠りの上段に被昇天のマリアが描かれている教会があったが)
『中世絵画を読む』辻佐保子著によると、(150ページ)
従来の魂のみの昇天の形式に満足せず、「汝は生けるまま天に召されるにふさわしい」と言うダマスクスのヨアンネスの説教通り、天使たちの支える光背に包まれて扉口に達する聖母の姿が、扉とキリストの間に導入されています。≫

 
 

昇天するマリアにむかって天(上の白い半円部分)の扉がひらかれているが、ここにいる天使たちはモノクロームで描かれている。これは決して塗り残しではないのだそうだ。
同書によると、他の部分と比較して色彩や質感の世界を目立たせたのは、霊的世界の実在性をみせたかったからなのだということです。この「天の扉」 は聖母の魂の眼にのみ見えており、肉体を備えた下方の使徒をはじめとする生存者たちには見えない、ということになっている。 

 
 ↑昇天するマリアは左手を伸ばして不信のトマスに帯をあたえようとしている。
 
モノクロトミーの例として、同書ではこの絵のすぐ下の絵もあげている。アーロンがマナの容器を手にしているが、そこに描かれたキリストはモノクロ、この容器がキリストを宿すマリアであることを示すため黄土色でキリスト胸像を描いている。受肉以前のキリストは不可視であるという考えからきている、ということだ。
 
 
ビザンティン絵画は 神学にのとっている、ということなのだろうか、奥が深い! 
 

 
 
 
 
 ユダの裏切り  左は ユダが銀貨30枚で売る場面
 
 最後の晩餐 ビザンティンでは必ず大根が出る(葉っぱは食べない)

 北壁

 
 (下から二段目)嘲笑、十字架の道行き、昇架 磔刑   下段は聖ゲオルギウス伝
 
 
 
 嘲笑拡大 シンバルを打ち鳴らし、太鼓を叩いてはやしたてる、イエスの戸惑いの表情も忘れがたい。
 
 百人隊長、ロンギノスも描かれている。イエスのおなか、筋肉?

裁きを受けるイエス  ↓最高法院 大祭司アンナスと カイアファ(服の胸あたりを引き裂いている)           手を洗うピラト(この場面が描かれるのはまれらしい)

   
   手を洗うピラト
   
   上に鶏がいる

↑北側アーチの柱に ペテロの後悔(鶏が鳴く前に三度イエスを知らないと言ってしまう。弱いペテロ!ペテロは最後もクオ・ヴァディスにあるように、ローマから逃げようとしたりして、第一の弟子がこういう人間臭い人物、というところが面白い。親しみを感じる。)

 
 左の犯罪人にはニンブス

磔刑 三本の十字架が描かれている。二人の犯罪人のうち、一人はイエスをののしり、もう一人はそれをたしなめたので、イエスは彼に「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言った。
そのため楽園に行ける犯罪人にはニンブスが既につけられている。

ドームに パントクラトールのキリスト

 
 

この教会は元バシリカで壁面が広いので たくさんの場面が描かれている。

聖ゲオルギオス聖堂であるので、キリスト伝の下段には聖ゲオルギオスの生涯が描かれている。
顔など違うのだが、場面的には共通しているところがあるのでまぎらわしいところもあった。

帰って撮った写真をみていると、必要な場面がいくつも抜けていることに気がついた。最後の晩餐も一部分だけ。
大人数なので、写真が撮りにくく、すいたら、と後回しにしているうちに忘れてしまった、というところなのだが、こういうことはが他の教会でも多くあった。
教会内滞在時間は十分にあったのだが。この時も外でぼーっとしていた時間もあったのに、、、。もったいないことをした。

長閑ないい景色。 上の司祭館(?)でお手洗いをかりて バスでクマノヴォに向かった。

 
 
 
 

クマノヴォBaba Canaでランチ(大体 12001300
クマノヴォはマケドニア第二の町で75パーセントが正教徒。キリスト教徒とイスラム教徒との共存が比較的進んでいるが、北の方コソヴォとの境は危険度が高くなるそうだ。が

   
   
   
   民族衣装?

お店のオリジナルサラダ 鶏肉のベーコン巻きグリルとポテト ヴァクラワ

バス移動してバニャニ村に向かったが、そこの教会については そのUで