5日目  9月24日(月) (雨がち)

ハーメルン〜ゴスラー




430頃目が覚め 500起きる
645730 朝食
朝食ルームも素敵 紅茶は ロンネフェルト
   
ロビーにねずみ    

7
55 荷物出し

900出発だが早めに玄関に行き川の写真など撮る。左がホテル
 

ロマネスクファンのある方が町の案内をみて 「近くの教会がロマネスクとかいてある」とおっしゃるので、一緒に行ってみることにした。道を隔ててお向かいなので。
現地ガイドさんとの待ち合わせスポットが間違っていたため、20分ばか待つとになったのも都合がよかった。

   

聖ボニファティウス カテドラル

https://www.muenster-hameln.de/startpage.html

旧市街のはずっだが、なんと大聖堂がホテルの目の前だった!ドイツ語だが詳しい,写真もかなりある本もおかれていた。3€
802あるいは812年にGrafベルンハルトが個人用教会を開いたことに始まる。
826年子供がないままベルンハルトが亡くなったためフルダの修道院に属することになった。
上記ホームページの略年表では クリプタ及びロマネスク教会がいつ造られたのかは明記されていないが、1209年には火事でロマネスク教会が破壊されたとある。1280年にはロマネスク教会に代わってゴシック教会が建てられた。(写真の角度を修正したので おかしいが)

 

クリプトがロマネスク 造られたのは112040年頃 と特定されている。 

 
ヨブのレリ−フ、これは現代のもの 
 
洗礼盤の制作年代は特定されていない 
 
奥の祭室部分は13世紀に付け加えられた 

上に上がって    焦って撮ったので手振れ写真が多い。一枚、買ってきた小冊子からお借りした。

   
12世紀第三四半期   
 
   

急いでホテルに戻りかけると一行がやってきた。教会に行った人がいることを聞いてガイドさんが「それでは教会も見ましょう」 とおっしゃったそうだ。

ヴェーザー川の鮭と少年 なおハーメルン市の紋章に描かれている教会は このボニファティウス教会である。
ハーメルンは宗教改革でプロテスタントになったのでルター派の教会。

   
   

940頃から 市内観光 
ベッカー通りをマルクト広場へ ツェレの木組みの家々も素晴らしかったが、こちらのほうが中世から町の規模というか富裕状態もすごかったのか、立派なヴェーザ―ルネサンスの家が多く、各家のサイズも大きい。

ハーメルンが歴史上に現れるのは グラーフ・ベルンハルトの時代から(8世紀末)。
14261572年までハンザ同盟に属し、経済的に発展、裕福な商人や地方貴族が競って豪華な家を建てた。

 
 
 
 
   
 

レーヴェン薬局 1300年頃の建物、今でも薬局

 
 

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 1560年ヴェンデンシュトラーセの家

オスター通り(一番の目抜き通り、小売店もあって、昨日なくしたので 5€傘を買った。)

 
 

シュティフツヘレンハウス(1558年)とライストハウス(1589年、このように張り出し窓があるのはオランダの影響)

 
 ロゼッタがあるのは初期   張り出し窓があるにはオランダ建築の影響
   
 
 
 デンプターハウス1608年

環状線の外にある新市庁舎広場にある笛吹き男と子供たちの像を見に行った。

ハーメルン、というと 笛吹き男だ。
私が笛吹き男のことを知ったのは昔、朝日新聞に連載されていた阿部勤也氏の「ハーメルンの笛吹き男」だ。
もうほとんど覚えていない。氏の本は数冊持っていたはずだがみつかったのは『ヨーロッパを読む』(石風社)だけ。
ハーメルンの笛吹き男とともに再読しようと思っている。

 

1284年 ハーメルンではネズミが異常発生した(製粉所があるのでネズミは多かった。そこに色とりどりの服を着て笛を吹く男がやってきてネズミ退治を申し出た。
ネズミは退治されたが、町の人々は約束の代金を払わなかった。 
しばらくして又 やってきたその男は笛をふいて子供たちを誘い出した。
130人もの子供たちが男についていき町はずれの岩穴に入っていった。
その穴は石でふさがれて子供たちは帰ってこなかった、という話。

いろいろな解釈があるが、町民たちは町の子供たち、という言われ方をしていたこともあり、住民の東方移住説、というのが今の解釈だと、現地ガイドさんは話していらした。

ネズミ捕り男の話は16世紀初めごろからあった。19世紀初めにグリム兄弟がこの話を取り上げ、19世紀終わりにどんどん有名になり、ハーメルン観光の目玉になっている。

ハーメルンの町の途中だが、写真の枚数の関係で そのUへ