8日目 9月27日(木)

ハーナウ~ ヴュルツブルク~テュービンゲ


3:00過ぎ目が覚める
5:00 過ぎ起きる
630700 朝食

 
 
 
 

830 ホテルから徒歩で市内観光出発
とても寒くて手袋をしていても指が凍えてカメラのシャッターを押しにくかったほど。
ハーナウという町は第二次大戦でほぼ100%(残った家は7棟だけだったそうだ)被災して町を作り直している。10分くらい歩くとマルクト広場

向こうに市庁舎 広場にグリム兄弟像 

腰かけているのが、弟ヴィルヘルム、立っているのが兄ヤーコブ。兄弟は童話集で有名だが、法制史やドイツ語文法でも知られる学者だった。 

 
 
   
 メルヘン街道の出発点であることを示す銘板

ハーナウはグリム兄弟の生まれ故郷で、メルヘン街道はこの町を出発地としてブレーメンに至る。
銘板にメルヘン街道の出発点が記されている。

広場に井戸があった。

 

市庁舎の裏側の通り、 ラング通りに弟の画家 ルードヴィッヒが住んでいた生家。

 

フライハイト広場 グリム兄弟の生家があった場所だが戦争で破壊されて今はバスターミナル

 
 

マリーエンキルへ前を通って

   
   
 

井戸があった。

おとなりは ドイツ金銀細工士の館 Goldschmiedehaus 1538

 
 
 

ハーナウは金細工や装飾加工で知られていたそうだ。建物をみただけで中は見学していない。先へ進み

 

少し公園を歩いた。気持ちはよかった。

 
 

下には つぐみの髭の王様 とあったが、どうしてなのかわからない。

 

ホテル ツーム・リーゼン 

   
   
18121216日 ナポレオン1世が泊まったホテル。 
この像は 1945315日までホテルのナポレオンの部屋にあったもの。

ここで観光終わり。ホテルに戻ってバスでヴュルツブルクに向かってバスで出発

10001130 ヴュルツブルク

ヴュルツブルク(Würzburg) 

 

豪華なバロック建築の司教宮殿があることで有名で、これが世界遺産になっている。
67世紀、ローマ帝国崩壊ののちのヨーロッパ大陸はまだキリスト教化されていないところも多かったが、そこへアイルランドから修道士たちがやってきて伝道してまわった。
686年頃聖キリアンが二人の弟子とともにやってきてこの地方の領主を改宗させたが、689年に殉教。
聖キリアンの殉教地として、この地方の伝道活動の拠点としてまたカロリング家とのつながりも深くなり まちは発展。

ヴュルツブルクの名が初めて文献にあらわれるのは、704年だそうだ。
741/742年に聖ボニファティウス(この人はイングランドからやってきた。フルダ大聖堂に墓所がある)によってヴュルツブルク司教区がおかれる。
ハインリヒ2世の時に司教は 公 の位を与えられた。
貨幣鋳造権、関税などの特権を認められて、司教領主を持つ都市として発展。

マリエンヴェルクはそれ以前にも要塞ではあったが、軍事機能と居住機能を一つにまとめた建築物として、司教の世俗権力を維持するために造られ、1253年以後司教の常住する居城となった。
1416世紀には経済力を蓄えた市民たちが 都市領主たる司教に反抗。司教はマリエン要塞を強化して対応。要塞は外に対してだけでなく市民をおさえこむための砦ともなった。 

バスをおりて まず向かったのは レジデンツ
http://www.residenz-wuerzburg.de/deutsch/raeume/index.htm
レジデンツ(司教宮殿)正面 残念ながら 逆光

 

 噴水、 上にはフランコニア像、左黒い影になっているところに リーメン・シュナイダー 
 

172044年に建てられたバロックスタイルの司教宮殿。
中は カメラ禁止 まあ、めまいがするほど、というのはおおげさかもしれないが、豪華絢爛
まず二階への階段。吹き抜けの天井にはイタリアから招かれたティエポロによって描かれた絵は 君主たる司教に中世を誓う四大陸。(上記ホームページですこしだけ写真が見られる) 

ヴュルツブルクも他の多くのドイツの町同様、第二次大戦によって、壊滅的打撃を被った
(市の80%が破壊された)
レジデンツも爆撃されて壊滅に帰したが、石造りの天井は無事だったので、絵も大丈夫だったそうだ。
ロココ風の鏡の間など、とても手が込んでいて圧倒された。この宮殿の施工を依頼したのは シェーンボルン家出身の二人の司教、土地購入資金と 初期建設費用は、前の司教の代の時に賄賂で私服を肥やしていたガルスという人物から取り上げた罰金(約60万グルテン)だったそうだ。一体どのくらい着服したのか?!
建築監督は バルタザール・ノイマン。

この後、大聖堂へ
ザンクト・キリアン大聖堂DomsstKilianドイツで4番目に大きなロマネスク様式の教会

1040年に建設が始まったがその後改変されている。第二次大戦の爆撃でも内装の主要部分は無事だった。

   
 大聖堂東側  西側

内部 側廊との境のアーチなどまさしくロマネスクだがアプシスはスタッコ装飾で華やかに仕上げられている。 
手前の七枝燭台は新しい、ときいたようなきがするが定かではない。

 

柱に司教の墓石が飾られている。もっとも有名なのがリーメンシュナイダーによる ルドルフ・フォン・シェーレンベルク司教の碑

 

ヴュルツブルクに工房をもったリーメンシュナイダーは彫刻家だが152021年には市長も務めた。 
農民戦争の時、農民側に加担したとしてとらえられ、手の筋をきられて、その後制作できなかったといわれている(そうではなかった、という説もある)

ノイミュンスター教会  聖キリアンとその従者が命を落とした場所だとか。

 

27マルクト広場の北には マリエンカペレ 1337~1470年市民たちの教会

   

入口にリーメンシュナイダーによるアダムとイヴ (実物はマインフランケン美術館にある)

 


この後ランチだが、 写真がおおくなってきたので、途中だが そのⅡへ