8日目 そのU

シュバルツラインドルフ〜 ケルウン



1220 すぐ近くの DOMSTEIN RESTAURANT

   
   
なかなかいいお店 
   
   
 
   
スープ、チキン胸肉 チョコクリーム

1320頃レストランを出て少し歩いてバス。ローマ浴場(カイザーテルメン)跡の横を走った。

 
 

2時間半以上走って最後は少し道にまよって、ボンのライン川をはさんだ郊外シュバルツラインドルフに
教会の敷地に入ったところでお手洗い。ところが工事現場のようなボックスが入口門の横にたっている一つだけ。手洗いの水が出ないだけでなく水も流れない。でも昼食後かなり時間がたっているだけに皆我慢して次々入る。今回の旅行でもう最悪!(大体ドイツのお手洗いはきれい。今回はこれまで一か所フランスでダメなところがあっただけ)

気をとりなおして教会へ

シュバルツラインドルフ 聖クレメンス教会Schwarzrheindorf  St. Maria und St. Clemens 
シュタウフェン朝ロマネスク教会である。
  
 
 
 門を入ってすぐのところから、入口は左にまわりこんだところにある。真っ白に赤! 聞くと一週間前に塗りなおしたばかりとか。このような白塗りは近年からだそうだが、塗ったのはもともとこのように白塗されていたからだとか。左に半円以上に突出しているところがあり、上下二段になっている。回り込むと 
 
 

円形に突出していたところが 上下二段になった礼拝堂。つまり二重礼拝堂なのである。
塔、二階部分は リゼーネ+半円アーチ・フリース、これを オットー朝において準備された分節要素が発展させられ、効果的・装飾的に活用され、と岡野氏は述べている。 見慣れれば これもよし、ともいえるがロマネスクファンとしてはて飾りすぎの感がある。
百合型四弁花型窓はこの教会が最初期の例で、この後ニーダーライン地方の末期ロマネスク教会で展開することになる。

この教会はここに城を持つ豪族でケルン大司教や国王コンラート三世のコンツラーでもあったアドルフ二世フォン・ヴィート(没1156年)が城の礼拝堂として建てたもの(1151年献堂)
彼は アーヘンで フリードリッヒ一世バルバロッサの戴冠式もつかさどった人物である。

集中式の平面プランで二階建ての礼拝堂(二重礼拝堂)で上階がフォン・ヴィートの家族のため、一階は臣下のための礼拝堂であった。この二重礼拝堂はアーヘンの王室礼拝堂を範としているが、今回の旅では シュパイヤーマインツのゴットハルトカペレなども見ている。
しかし、ここは 全面フレスコ画におおわれて華やかである。

アドルフ二世亡き後 姉妹で、エッセンとゲレスハイムの女子修道院長であったヘートヴィッヒが礼拝堂を修道院にして、彼女が院長となった。 その時(1170年ごろ)集中式礼拝堂の西翼を延長して長廊としたのでラテン十字型の教会となった。なお シュバルツラインドルフ のシュバルツ(黒)は ベネデイクト会の修道福が黒だったことに由来する。

中に入る。集中式だった部分の天井、壁上部は全面、青を基調とするフレスコ画でおおわれている。
長廊から集中式礼拝堂を見る。

 
 
集中式礼拝堂から見上げる。(柵があるので2階になっているのが分かると思う)
 
 

階下のフレスコ画は創建当時、1151年ごろのもので、階上の絵は1170年ごろのもの。出来は下の階のほうがよいとされる。

マエスタ・ドミニと四福音書記者のシンボル。
 
 
神の子羊を中心とする黙示録の図解、勝利の教会など。
 
 

階下は エゼキエルの幻視 エルサレムの破滅と新たなるエルサレムの建設を物語る絵、

 
 
 
 
 
 
 
 
中央ドームは吹き抜けになっているが 側面に新しい神殿  「エゼキエルの召命」61右の各場面、「エルサレムに対する裁きの布告」「裁きの理由」「裁きの遂行」「新たなるエルサレムの建国」
59 西壁南 タボル山でのキリスト変容
 
 

61下イエスは神殿から 金貸しを追い出す 吹き出しの字は読めないが、ヨハネによる福音祖のの〈この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる〉であり、 上のエゼキエルへの召命に対応している。

 
 
 
       絵の配置がわかるように 載せた

外の噴水

 
 

1700 ここを出て ケルンに向かう

ライン川を渡るまえに見えたケルン大聖堂

 
 1800過ぎ ケルン プルマンホテル到着
 
 
1830 夕食をキャンセルしてロマネスク仲間四人で 美術館巡りに出発.

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