ケルンという町
ケルンが歴史に現れるのは、ローマがこの地に住むゲルマン系ウピ族を同盟者として獲得した紀元前50年ごろ。
紀元前38年頃、オピドゥム・ウビオールムが形成された。
紀元48年ローマ皇帝クラウディウス(在位41~54)はユーリア・アグリッピナ(15~69年)と結婚。
彼女は 生地に自分の名のついた町をほしがったので、紀元50年頃この地に城壁を築き退役軍人や商人、職人を住まわせ都市集落が形成された。
妃の名をとり コロニア・クラウディア・アーラ・アグリピネンシウム と名付けられた。
この名が簡略化されて、ケルンとなったのである。余談だが、このユーリア・アグリッピナは悪女として有名、連れ子がのちの皇帝ネロ。
この息子を皇帝にするため、夫の皇帝を殺害、皇帝になった息子が自分を疎んじると今度は子の殺害をくわだて、逆に殺されてしまったという人物である。
ケルンはトリーアとともにアルプスの北では主要なローマ都市として繁栄したが4世紀半ばからフランク族の侵入を受け、455年リプアリウス・フランク族により落とされた。
481年クローヴィスがフランク族を統一、メロヴィング朝がうまれた。
キリスト教の到来は早く、4世紀には司教座がおかれ、8世紀にはカール大帝によって大司教区に昇格。
その後オットー大帝の弟大司教ブルーノ(在位953~965)は 聖パンタレオン教会を建てた。
11世紀は教会建造ラッシュ、そういうわけでこの町には12のロマネスク教会が現存し、そのうち5教会を今日見学することになっている。
ケルンの大司教はブルーノがそうであったように、その後も聖俗の支配者でありつづけたため、商人、職人の反感を買うようになり、抗争が頻繁に起こった。
市民が自治権を獲得、ついに大司教はケルンの町を出ることになった。(1288年)
1248年に着工されたケルン大聖堂の建築監督ゲーアハルトの不審な死を中心に当時の大司教と大商人、手工業者たちの争い、日常の様子を描いた
「黒のトイフェル」という歴史ミステリーがある。
6:45~7:20 朝食 ワッフルがあった。
9:00 出発
9:10~10:00 聖パンタレオン教会 St. Pantaleon
http://www.sankt-pantaleon.de/home.html
ケルン大司教となったブルーノが聖パンタレオンの聖遺物を得てここにベネデイクト会修道院を創立し、その教会として聖パンタレオン教会を建てた。
(教会そのものは866年以前に存在した。新たに957年ブルーノ開基。966年増改築 献堂980年頃
オットー2世妃テオファノ による改築984~1000頃
ビザンツ皇女であったテオファノは、ギリシャの医療聖人パンタレオンを崇敬していたのでこの教会のために力を尽くしたのだ。
ロマネスク時代にそれまで単廊式であったものが 南北に側廊がつけられ、三廊式になった。
その後も増改築はあったが第二次大戦による破壊のあと、ほぼテオファノ時代の教会に復元されている。
西正面、まごうかたなくオットー朝ヴェストヴェルクである。
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全体写真が撮れなかったので、Googleマップから |
中に入る。平面図 東側、 奥に十字架
西側 赤白との色相交代が美しい。
大アーチがヴェストヴェルクと身廊を分けている。
テオファノのお墓(棺は新しい)
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多分 聖パンタレオンの 聖遺物箱だが 記憶は 確かでない
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ローマ時代のヴィラの跡にたてられたので、クリプト(周歩廊)からその跡がのぞけるようになっていた。
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ブルーノの墓 |
中庭に出る、向こうにロマネスク時代と思われる回廊が一部残っていた。
バス移動。10分ほどで次の教会に着いたが、ここで先にトイレタイム、お向かいのドリントホテルで
ザンクト・マリア・イム・カピトール教会 St.Maria im
Kapitol (10:28~11:15)
ここには1世紀ローマのカピトール神殿があった。
689年ここにメロヴィング朝の宮宰中ピピン(この家系がのちにカロリング家となる)の妻プレクトルーディスが貴族女子修道参事会を開基した
(多分ヴァイキングによって破壊されて)が現存しない。
10世紀ケルン大司教ブルーノ(965年没)の遺言と遺産により教会新築。
このオットー朝の建築は 現在の教会の西側部分に残っている。現在は2基塔だが創建当時は3基塔えあった。
現在の教会は院長イーダ(1015~1060、オットー2世の娘マティㇽダの娘、ケルン大司教ヘルマンの姉妹)による。
1140年起工、1065年献堂、3廊角柱バシリカ、身廊は木造平天井、側廊、回廊は交差穹窿,三葉式内陣、
後代の改築を経てはいるが、第二次大線による破壊の後、ほぼ当時の姿が復元されている。
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Googleマップから |
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三葉型内陣は西洋の大規模建築で初めてで、ベツレヘムの降誕教会(新築は 5世紀末に由来するとされている)
これ以後、ケルンなどにこの形は受け継がれている。
中庭 建物の西正面側に回廊付き中庭があった。
中に入って 西を見る。 ここがオットー朝
東 身廊と三葉型内陣を分かつスクリーン
三葉型内陣、三つとも同時に写真に収めることは不可能だった。 平面図からもわかるように 各内陣は側廊の延長のような周歩回廊を持っている。
29 11世紀のピクチャードア もともとは着色されていた。残念ながら修復中で足場が邪魔
1300年頃の磔刑像
ロマネスクの聖母子(ヘルマン・ヨーゼフの聖母)(1180/90)
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中ピピン妃プレクトゥルーデス像 1300年頃 |
修道院長イーダ |
ステンドグラスに描かれた修道院長イーダ 教会を手にしている
クリプトは三廊式で広い。これはシュパイヤーを模したと考えられている。 洗礼盤
外に出て東側を見たが、三葉型の三つを同時に撮ることは すぐ近くに隣の建物が迫っているためできなかった。
次の教会に行く途中 ノイマルクトの朝市を見た。
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