今日は1日 ロードス島観光
ロードス島は20年以上も前に塩野七生著『ロードス島攻防記』を読んで以来ずっと訪れてみたいと思っていた島である。
勿論、今回の旅行前にも読み返した。
ロードス島
ロードス島は太陽神ヘリオスの領土でヘリオスはニンフ、ロドンとともに住んでいたと伝えられている。
ロドン(Rodon)とはギリシャ語で薔薇を意味するそうだ。ロードスの名はこのロドンからきているという。
つまり ロードス島は薔薇の花咲く島、なんと素敵な!でも時季のせいか、薔薇は見なかった。
古代から人は住んでいて、島であるから、交易も盛んだがいろいろな戦にも巻き込まれている。
紀元前700年頃に、リンドス、カミロス、イアリソス、の三つの町が築かれて栄えていたが、紀元前408年ロードス市が築かれてから、島の中心はこのロードスタウンに移った。港の入り口には高さ32mのヘリオス神の巨像が建てられ、行きかう船はこの足の間をくぐって入ったという。ギリシャ7不思議の一つと言われたが地震で倒れ、その後サラセン人によって解体されて売られてしまい、今は見ることが出来ない。紀元前5世紀から紀元前3世紀がロードス市の最盛期。
紆余曲折の後、14世紀からが私の一番関心のある、騎士団時代となる。
聖ヨハネ騎士団は1113 年に正式に認められたホスピタル(医療)騎士団であるが、徐々に軍事的要素を勤めるようになっていった。有名なシリアのクラック・デ・シュバリエもこのヨハネ騎士団の要塞である。 http://ykharuka.s113.xrea.com/sjl/sjlmain.html 6日目に写真(ここも空爆されたと伝えられているが、現状はどうであろう、美しい城だったのに)
1187年エルサレム陥落後もアッコーにとどまっていたが、1291年アッコー陥落後、キプロス島を経て、1309年ロードス島を奪って、ここを本拠地とした。
ロードス騎士団とよばれるようになり、テンプル騎士団解体後、その資産をうけついでイスラム教徒と戦った(戦争のないときは 海賊行為をしていたそうだが)
『ロードス島攻防記』 で描かれているのはこの騎士団のロードス島最後の戦いの場面である。
1552年 オスマン帝国のスレイマン大帝との闘いに敗けてマルタ島を本拠地にするに至った。20年以上も前にマルタ島には行った。騎士団の館や大聖堂をみたが、その時、いつかロードス島にも、とおもっていたその願いが今回かなったわけだ。足の痛みをこらえつつ頑張って歩いた。
ロードス島は港が大きいので直接着岸できる。7:15 船から
下船してバスでリンドスへ。混載でワールド航空のツアーの方々と一緒だった。クルーズ船と契約しているバスが何台も待っていて、それぞれのグループが決められた番号のバスに乗る仕組みになっている。(これはどの島でも同じ)1時間以上バスに乗った。
バスをおりて広い坂を少し下ってリンドスの中心広場へ
そこから白い家々が建ち並ぶ通りをぬけて山のほうへと坂道を登っていく。(おかしな写真になってしまった)
道端では レース編みを広げて売っている人がたくさんいた。あの上をめざす。
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ガレー船のレリーフ(紀元前5世紀) |
どんどん上りが急になり、石段もある。 最後に近いところは両側が手すりもない、あまり幅の広くない坂。ここでいきなり、風が強くなって体重の少ない私は危うくふきとばされそうになって、恐ろしかった。
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上に神殿の柱が見える。 |
ここで小休止。(多分ここまでで30分くらいは歩いている)
ここから上がると、古代のアクロポリス。ここの要塞化はロードス騎士団によってなされた。道が悪いので私はここで一行が戻ってくるのを待つことにして、石にこしかけて休憩。ここでは映画「ナバロンの要塞」の撮影がされたそうだ。
上は眺めがよかったらしい。(聖パウロの港が見えるそうだ)ワールドの添乗員さんが先にもどっていらしたので、そろそろと思い私は足がおそいので、先に降り始めた。坂道が恐怖だったが、幸いこの時は風が吹いていなかった。(途中で同じツアーの方に追い抜かされた)立ち止まっては写真を撮る。
息をのむ美しさ。何枚も何枚も撮りたくなってしまう。
今回の旅行中、海の景色が一番美しかったのはここだ。
下の広場まで降りる。ここからバスの駐車場までは坂道を10分くらいあがらなければならない。
歩けない人はタクシーで5€(?)といわれたので、タクシーを待っていると、ワールドの添乗員さんが走ってきて「バスがありますよ」 と教えてくださって、発車寸前に乗ることが出来た。
(この添乗員さん、とても親切かつイケメン、最近ワールドご無沙汰だがまたワールドで旅行したくなった)
バスに乗って30分くらい走ったころ「誰か乗っていない人がいる」 という声が後ろの方から聞こえてきた。
発車前人数確認をしなかったし、混載なので気がつきにくかったのだろう。どなたかわかった。親切にしてくださっている方、とても心配になった。然しすぐバス同士の連絡で後ろのバスに乗られたことがわかってほっとした。
11:45頃、ロードスタウンの城壁の所に着いた。10分くらいして乗り遅れた方も次のバスで到着された。
アンボワーズ門
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橋から見る二重の城壁 |
もう一つ門をくぐって
騎士団長宮殿 希望者は午後のフリータイムに、ということで今は中には入らない。
騎士団通りを歩く少し坂を下る感じ。意外に狭い。馬なら並んで進めるのは二頭くらいだろう。ふつうは徒歩だったのかもしれない。
『ロードス島攻防記』でも徒歩で騎士団長の宮殿に向かっている。
各国の騎士団の館が〉建ち並んでいる。 紋章がついている。説明されたが、メモしていないのでどこの国の館か分からなし。
騎士団通りをくだり、考古学博物館前でこの付近の説明をうけたあとフリー。
お昼。船にもどれば昼食は準備されているが、午後も観光するなら、ここで食事しませんか、という添乗員さんのお声がけで皆でランチ。
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サラダと確かイカの焼いたものを何皿か取ってシェアした。(12:50〜13:25)
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食後、それぞれ、お目当てのところに散っていく。
念願のロードス島、何か記念になるものを、と考古学博物館前のアクセサリー屋さんに入った。
デザインものを扱っているお店。パッとひとめみて気にいったペンダントトップがあったのでそれを購入。
それから考古学博物館へ (14:20〜15:10)
↓左が考古学博物館。 旗のたっているところが入口。 斜め向かいの白っぽく見えるのがこの後いく教会
ここは騎士団時代、病院だった建物。
1437年カタロニアのグランドマスターお金がだして建てはじめ、完成は1485年、しかし完成前から患者は受け入れていた。
入口を抜けると すぐ 中庭。 回廊のようになっていて、未整理の断片がおかれている。
修道院の回廊、というよりも中東のキャラバン・サライ(隊商宿)を想起させる造りだ。
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中央広場から大階段をあがって中庭を見おろす |
もともと地上階は貯蔵庫と8軒の道路に面した貸店舗。(隊商宿と同じ)上階が大病室、病室と離れて、食堂、台所、執務室浴室、ヴィップ用病室などがあった。
少し、下の回廊をみる。
中央広場から大階段をあがって上階へ。
図のU 騎士団時代の食堂
30 ロードスのアフロディテ(紀元前1世紀頃)この博物館のの目玉と言われている作品。
博物館の途中だが写真が多くなってきたのでそのUへ
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