6日目 5月29日(水)

キラーニー〜キャシェル〜クロンフォート〜アスローン



4
00過ぎに目がさめ、500本格的に起きる。

700 〜730 朝食 ヨーグルト、パンケーキ

   

745 荷物出し
840 出発   雨

走り出して10数分後マーケットクロスをみかけた。(標識、建物から割り出そうとストリートビューしてみたが分からなかった)

 

バスの中ではジャガイモ飢饉の話をきいたがこの時逆にアイルランド東部、南部(コークなど)は人口がふえたそうだ。

しかし、交流が禁じられたいたため、ペストがはやった時アイルランド人には死者が少なかったそうだ。

1030頃トイレストップ チョコバーを2本買った。ここでだったかどうか、お店の人が「中国人はお手洗いを使ってもありがとうを言わなければ何か買うこともしない、日本人は必ずありがとうを言って何か買っていくからいい」と添乗員さんにおっしゃったそうだ。

(私たちは普通、トイレチップ代わりに水やちょっとしたお菓子を買う)

ロック・オブ・キャシェル Rock of Cashel 11051250

www.heritageireland.ie/en/south-east/rockofcashel/

http://megalithicireland.com/Rock%20of%20Cashel.html?src=gpx

あいにく小雨の中の見学となった。

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2002年に来た当時はミステリー 『修道女フィデルマシリーズ』がまだ翻訳されていなかったが、その後翻訳されて10数冊出ている。もちろんすべて読んで次の翻訳が出るのを心待ちにしている。探偵役の修道女フィデルマはこの岩山の上にあったモアン王国のお城のお姫様なのだ。7世紀、アイルランドでは男女平等、修道女は結婚もできた。フィデルマは幼いとき王である父が亡くなったので、ダロウ(明日行く!)の修道院に預けられて教育を受け、弁護士で裁判官の資格も持つ女性として描かれている。フィデルマ時代のお城はないが、新たな思いをもってみられるのではと再訪がたのしみであった。7世紀のキャシェルの様子が描かれているのはシリーズの中の『幼き子らよ、我がもとへ』 。

 
 当時このような建物はなかったはずだが、遠くに見せるのはロック・オブ・カシェルのようだ。
ここではスケリック・ヴィハル島(スケリッグ・マイケル)に行く場面もあり興味深い。 

45世紀 オーンがオーガナハト王の城を築いた。彼が(書かれた歴史ではなく伝説)マンスター(当時の言葉ではモアン)王の祖。モアン国はアイルランド5王国のうち最大。

5王国はそれぞれの地域で多くの小王国を貢納させ統括していた。 

448年に聖パトリックがやってきてキリスト教化した。(その前からキリスト教は伝わっていたらしい)

マンスターでは10世紀にはオーガナハト王家のみがカシェル王としてふさわしいとされるようになっていた。(アイルランドでは古代、完全な世襲制ではなく、王家に連なる一族のうち適格者の中から合議で王が選ばれる仕組みだった)マンスター一帯を治めていたオーガナハト家はこの時期非常に強力でアイルランドの南部制する勢力となってハイキングの座を争う一方の雄であった。カシェルの王は聖職者でもあった。襲撃されて散逸したものを集めて辞書を編纂した司教王(Cormac mac Cuilennain902年)もいたほどである。しかしこの王はタラの王と戦って908年に亡くなった。これを機縁としてオーガナハト家は力を失っていった。

マンスターのはずれの小国クレアのブライアン・ボルーが力をつけてきてカシェルの王となり、1002年ブライアン・ボルーはカシェル王で初めてのタラのハイキングになった。しかし、1004年クロンターフの戦いで殺された。(これによりアイルランドのバイキング戦争は幕をおろす)

彼の孫でアイルランドのハイキング(自称らしい)にもなった Muricheartach Ua Brian(ムルタ・オブライエン)は 1101に開かれた教会会議で、カシェルの王座を教会に与えることを宣言した。これによって彼は教会改革者としての信任をえるとともに敵オーガナハト家から王座を奪われる恐れもなくなった。

ムルタの死後1119年にオーガナハト家の支族で南マンスターのデズモンドを基盤とするMac Carthaigh(マッカーシー)が再び支配力を持ち、その結果コーマック・マッカーシーによってコーマック礼拝堂(Cormac‘s Chapel)が1127年から1134年にかけて建てられた。 
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ここには9世紀にはすでに小さな教会と墓地があったことが分かっており、また11011111年までにラウンドタワーを持つカテドラルが建てられていた。

 

現在は廃墟となっているカテドラルは13世紀のゴシック建築のものである。

   
   
 
 上写真左の建物が 図の赤い部分となる
平面図など三枚は買ってきた本から
 

入ってすぐの偉容(上図の縮尺あたりから見ている)

降りみ降らずみの中、外をざっとながめて教会横の建物(Vicars Choral、15世紀〜18世紀まで使われていた)の中でで少し説明。天井は新しいが壁はオリジナル。食堂などが再現されていた。

 
 
   
 

建物を出て、キリスト教以前の聖なる井戸を見に行く。岩山の上なのに水が出たので王城が建てられた。↓左の壁のところに井戸、順番に覗きに行く。

   
  聖なる井戸  左の壁から井戸が見えた

セント・パトリック・クロス 12世紀のものでこれはレプリカ

   
 着衣のキリスト磔刑像  反対側は聖パトリック?

アイルランドの多くの十字架のようなリングはなくラテン十字で横に支えのシャフトがついているが片方は失われている。

大聖堂、たぶん、イヤフォンが外れていたのだと思う、説明をきいていなかったようだ。(前回の旅日記のほうが詳しい)

 
 
 
 
中にあった彫刻
 
   
 
   
   
   

北東に ラウンドタワー 高さ28m 高さ3mのところに入口、保存状態がいい。
買ってきた本によると、ベルタワーとある。ラウンドタワーについて従来、バイキングの襲撃を避けるために宝物をしまった、とされていたが造られた年代にはもうバイキングはこなくなっていたので、鐘楼説が唱えられているようだ。最上部に4っつの窓がある。これは鐘の音を四方に響かせるため、と考えられることも根拠の一つ。

 
 
 
 高さ3mのところに入口

この鐘楼がここでは最も古い建築物。
ラウンドタワーは資料で確認できるもので最も古いのは1124年完成のクロンマッノイズのものであるが、このキャシェルの塔は先に書いたように、1101年にオブライエンがキャシェルを教会に贈った時に既にあったと考えられる、と買ってきた本にはある。
(先に書いた所と少し矛盾する、、、。出典を確認しなければ)

コーマック礼拝堂に入るまで少し時間があるので付近を回る。

 
 
 
 
 

あちこちに墓石がおかれ、十字架がたてられている。遠く野を望み、フィデルマ時代に想いを馳せた。
当時は岩山の下に人家があったとある。その向こうは野原ではなく森林だったのではあるまいかクロムウエルの侵略で木々は燃料として伐採され野原となったらしい。
コーマック礼拝堂については そのUで