サン・ブノワ・シュル・ロワール修道院聖堂(14:15〜15:00)Saint-Benoit-sur-Loire
(サントル・ヴァル・ド・ロワール地域圏)
http://www.abbaye-fleury.com/
https://www.monestirs.cat/monst/annex/fran/centre/fleury.htm
デンとそびえる大きな塔に驚かされる教会である。ここは彫刻が有名。
サン・ブノワとは聖ベネデイクト(〜547年)のことで、イタリアのモンテカッシーノに修道院を開きベネデイクトゥス会則と呼ばれる修道会の会則を作った人。
このフルーリー(freury)の地に630年修道院が設立された。
モンテ・カッシーノは584年にランゴバルドによって破壊され、ベネデイクトの遺骨もちらばってしまったが、それをフルーリーの修道士が探し集めて持ち帰り、その時から(上記ホームぺージによると 660年、ほかの本では672年頃)サン・ブノワの名で呼ばれるようになった。
聖遺物を有することで繁栄しシャルマーニュの時代にはテオドルフスが院長で学校や写本室などを併設。その後衰退し、大革命の1790年には解散命令が出され修道院の建物は解体され売られたが教会堂は教区教会として生き残った。1944年には 修道院も再開され現在40人の修道士がいる。
目の前にたちはだかるように大きい玄関塔
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平面図、左側の黒点は柱で ↑写真の 正面塔にあたる |
最初は鐘塔が独立して建てられて(11世紀前半 ゴズラン院長の時、ゴズランはユーグ・カペーの子)1世紀間は独立した塔だったが其の後、教会外陣と結合された。
入口玄関楼の彫刻に目を奪われるがとりあえず中へ 外陣から内陣を見る。
まずクリプタに降りる。
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releques de saint benoit 480-547 (サン・ブノワの聖遺物) |
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上に戻って、
内陣へ
天井はトンネルヴォールト、内陣の壁やアプシスは半円アーチだが、少し馬蹄形に見える。内陣は11世紀に完成。
アプシス前の床モザイクも美しい。ローマ時代とか)
柱頭を見る。
トランセプトの柱32 買ってきた冊子を見るとトランセプトから内陣、アプシスにはロマネスクらしい面白い彫刻が多い。高いところはよく見えなかったのか、殆ど写真を撮っていない。すぐ下の写真にみられるように、ロマネスクらしい味のあるものが多いのだ。まことに残念。
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二人の人に足をつかまれているキリスト |
左、説教の準備をするブニワ、右 死んだ子を蘇らせるブニワ |
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ライオンの谷のダニエル |
左 悪魔が武におわが 羅馬で 知っていた女性を連れて句r(誘惑)
右 ブニオワは 茨の中で すでに裸になっている、 突如神の手が |
外陣
玄関ポーチ これ↓は北側から撮ったもの
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北壁の彫刻 (左)聖エティエンヌ の 昇天 殉教(石打ち) |
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西正面 |
これは一見、ヴェストヴェルクのようにみえるが、もともと鐘塔として建てられたもので建物の在り方は違うのだが、コルヴァイの玄関広間を思わせるところがある。ただしコルヴァイは建物の一部なので左右は壁である。
12本の柱が台座なしに立てられている。一説によるとこれは天井のエルサレムを表しているとそうだ。ヨハネの黙示録によると、方形で12の門がある ことになっているから。
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エジプト逃避 |
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黙示録 キリストがヨハネに幻影として現れ,跪いたヨハネがアジアの7つの教会(7つの燭台として描かれる)に送るマッセージを受け取っている。
↓左の矢をつがえている馬上の人物はイシュマエルと思われる。イサクが生まれたためイシュマエルと母ハガルは野にやられ、
イシュマアエルは弓をひく人となった。
教会北側の扉口彫刻を見る。(12世紀末)
キリストを囲む4福音書記者 上のマタイ(人)とヨハネは熱心に聞いて書いているが、下のルカ(牛)とマルコ(ライオン)はそっぽを向いている。
その下は 聖ブノワの遺骨の移送の場面、 左から遺骨をさがしだしている。 中央は二人の子供を生き返らせる場面。
15:00〜17:40 バス
そのVへ
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