5日目

そのU



そこから、少し坂を下りながら行くと、クロアチアで二番目に古い薬局がある。 

 
薬局のウインドウ  左の本は、上にザグレブと読め、紋章の中には 石の門が描かれている

坂を下っていくと石の門。これはグラデツの出入り口の一つで、かつては木造だったが、18世紀に石造になった。

   
 石の門  

ここには1731年の大火で奇跡的に残った聖母子像がある。こういう奇跡的に残ったなどというものは民衆信仰の対象になりやすい。沢山のろうそくがあるだけでなく、願い事を書いたのか、または願いがかなってありがとう、なのか紙切れがたくさん張ってあった。

   
   カギを持つ女性像

坂をくだると、聖ゲオルギウス像。ゲオルギウスはカッパドキアで竜退治をしてお姫様を助けた騎士。そこを過ぎるとカプトル地区になる。

 
 ゲオルギウス像
  

さらに新市街のイェラチッチ広場へ。この広場は重厚な建物が多いのだが 広告が大きすぎて美しさを損ねていると思った。

イェラチッチは1848年、(当時クロアチアは自治権は得ていたがハンガリーに組み込まれていた) 
ハンガリーで革命が起ったとき、オーストリア皇帝に組みすることにより自治権の拡大を得ようとして ハンガリーとウイーンの革命軍、と戦った人物。 結果的にはかえって自治を得られなくなってしまったのだが、クロアチアにとっては英雄とされている人物。 
銅像はハンガリーに向かって剣を振り上げていたが、社会主義時代に撤去された。現在はまた元に戻されたが今度はハンガリーとの友好のため、ハンガリーに向かって剣を振りあげるのはよくないと、反対方向に向けて建っている。

 
 イェラチッチ像

それから、青空市場を見ながらザグレブ聖母被昇天大聖堂へ。

大聖堂が建っているのは カプトル広場。カプトル地区はハンガリーとクロアチアの王であるラースロー一世が1094年に司教座を置いたことから始まった宗教都市。

 
 聖母被昇天大聖堂正面入り口
彫像は 左から 聖メトディオス、 聖ゲオルギウス、 聖バルバラ
 聖カテリナ、 聖フロリアン、 聖キュリロス

今ある大聖堂は1880年の大地震のあとネオ・ゴシック様式で修復されたもの。バルカンでは一番大きい教会だそうだ。
中の祭壇なども19,20世紀に造られたものが多い。

   
 聖母被昇天図  グラゴール文字

ここで見ておきたかったのは、グラゴール文字でかかれた碑文と、ステピナッツ枢機卿のお墓

以前からローマ側はキリスト教布教に熱心であったが、9世紀半ばまでビザンツ側(コンスタンティノープル側)は布教に熱心ではなかった。しかし時の総主教フォティオスは皇帝ミカエル三世と連携し、モラヴィア〈現在のチェコ、スロバキア〉にキリスト教を広めようとして862年キュリロスとメトデイオス兄弟をモラビアに派遣した。
そのとき、スラブ人の言語に通じていた二人は〈彼らはギリシャ人だが コンスタンティノープルには スラブ人もいた〉グラゴール文字という文字を考案し、聖書と典礼書の一部をスラブ語に訳して持っていった。 
二人の布教は失敗、キュリロスはその後ローマで客死。
ローマ教皇からスラブ語宣教のお墨付きをもらって兄のメトディオスはシルミウム〈ベオグラードの近くでディオクレティアヌスの四分統治のさい、東の副帝ガレリウスの宮廷があった町〉の大司教となった。

〈これもうまくいかず、結局当時はブルガリアであった、マケドニアのオフリドなどにビザンツ教会のキリスト教は根付くことになる。ローマからお墨付きを得た、ということはまだ東西分裂以前だからであろう。推測だが、このお墨付きを根拠にその後もローマ側のラテン語典礼を拒否したのではないか、と素人の私は考えている)

グラゴール文字は複雑だったので、9世紀末には早くもキリル文字が考案された(現在、ロシアやブルガリア、セルビアなどで使われているキリル文字の原型)。
そういうわけで私は グラゴール文字というのがもう幻の文字だと思っていた。
ところが買ってきたパンフレットによると、  

ザグレブ司教区の公式言語はラテン語であったにもかかわらず、典礼書は歴史的にずっとグラゴール文字で書かれてきた と書いてあった。
この教会の壁に掲げられているグラゴール文字碑文は単なる装飾的な要素だと思っていたが、グラゴール文字はその後も、その上本来ビザンツ側の布教のために考案された文字なのに東方正教会ではなく、西方カトリック教会で 使われていたことに、びっくりした。
しかし考えて見ればキリスト教世界の東西分裂は1054年。それ以前に存在した教会が、自国語で典礼を行えばスラブ世界では当然文字はキリル文字かグラゴール文字。古い文字を使ったとしてもおかしくないわけだ。
 
クセジュ文庫の『クロアチア』では、クロアチア人は典礼において母語での話し言葉と書き言葉を用いる権利を得たヨーロッパで唯一のカトリック教徒である、とある。
しかし、ローマは気にいらなかったであろう。禁止されたこともあったがそれをはねのけて続いたらしい。(スプリットに銅像のあるニンのグルグル司教は、宗教会議でスラヴ語の使用が禁じられたとき、その撤回を要求した人物だ)
 
グラゴール文字に直接ふれているわけではないが、『バルカンの亡霊たち』で、カプランは
・・ オーストリア・ハンガリー帝国による非道な支配から、クロアチアのカトリック神学者たちは 1054年に起きたローマとコンスタンティノープルとの分裂を超えて、スラブ人にキリスト教を布教した9世紀の伝道師、キュリロスとメトディオスの時代に帰ろうとしていたのである。・・・中略・・この二人の伝道師に熱い思いをよせるカトリック教徒はクロアチア人だけとなった、 と述べている。 


(こんなことを長々書くなんておかしいと思われる方も多いと思うが 私にとっては心躍る新知識)

ステピナッツ枢機卿のお墓(1997年につくられた)

 
 ステピナッツ枢機卿のお墓

ステピナッツ枢機卿、についてはどのように判断すればよいのかよく分からない。

 
 墓碑
メシュトロヴィツ作 (1967年)

ステピナッツ(1898〜1960)がザグレブ司教だった当時、クロアチアはナチスによって(1941年)独立国となった。これはナチスの傀儡なので、カッコつきの独立。正式には 1992年が独立の年)

独立国はナチスの傀儡国家といわれ、パヴェリッチ率いるウスタシャ(ファシスト団体)が統治していた。

この時のクロアチア独立国は、現在のボスニアも含む大きな国であったが、極端に民族主義で、正教徒セルビア人をカトリックに強制改宗させ、応じなければ強制収容所送りとした。ここで、多くのセルビア人、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)などが命を落とした。犠牲者数の推定は 18万5千人〜70万人以上とばらつきがある。
 
(90年代の内戦でのセルビア軍の残虐行為はこのときの報復という側面もあった、といわれる)

抵抗運動もあり、チェトニク(ミハイロヴィッチ率いるセルビア民族主義者集団)、パルチザン(チトー率いる ユーゴスラビア共産主義者集団)との間で内戦となった。俗に言われる〈兄弟殺し〉この内戦で公式統計で170万人もの死者を出した。ついでに書いておくが、この時ボスニアのイスラム教徒は最も純粋なクロアチア人といわれ、迫害の対象にはならなかった。
 
こういう時代にあって、ステピナッツはウスタシャに賛同、支持していたとして、第二次大戦後ユーゴの法廷で、証拠不十分のまま、16年の強制労働を課せられた
しかし5年後に刑務所から出され、故郷の村に監禁された。

その間、53年にローマ教皇ピウス12世は彼を枢機卿に格上げした。
大澤武男著 『ローマ教皇とナチス』によると、この教皇はヒトラーの教皇とまで言われた親ナチ派だったという。(この本ではステピナッツについても言及している)

クロアチア新政府は彼の有罪判決を取り下げ、名誉回復がなされた。しかし収容所で殺された側である、セルビア人やユダヤ人、ロマなどは当然、これをよしとはしていない。

1998年、ヨハネ・パウロ二世は彼を福者に列した。福者というのは聖人に次ぐ位である。余談だが、先ごろ日本のキリシタン殉教者たちが福者に任ぜられて話題になった。

何冊か本を拾い読みしたが真相というのはよく分からない。ステピナッツ枢機卿に対して好意的なのは、後であげる『クロアチア史』だけ。

ステピナッツ司教はパヴェリッチ政権発足当時、この政権に賛同し、支持を呼びかけたのは事実であり、その後ウスタシャがあまりにも過激、残酷なためその行動に抗議したというのも事実のようだ。しかし最後までウスタシャ政権との関係を完全に絶ちはしなかったという。

『バルカンの亡霊たち』の中で、ロバート・カプランは 結論的に「彼ははらだたしいほど政治的にナイーブで、自分のやっていることを理解していなかった」と述べている。

どうやら、人間としてはステピナッツはピューリタン的で、残酷な人間なぞではなかったようだが、だからといってこの時代、ナイーブだけではどうなのだろう。
無関係な人間だから 勝手なことを書いているが、生きにくい大変な時代だっとのだとは思う。

お墓の前で跪いて熱心にお祈りする人もいたし、明日は何か行事があるらしくお墓の周りを修道女たちがお花で飾っていて、とても敬われているようだった。私はなんだか複雑な思いだった。

赤い枢機卿の衣をまとった横臥像は、ちょっと好きではない。
メシュトロヴィッツ作の碑は、神に許しを請うているようで好感がもてた。(神が嘉し給うているのかもしれないが)

   
 大聖堂と17〜19世紀の城壁と円塔  カプトル広場の聖母マリアモニュメント

11時20分ごろから12時まで フリータイム

Fさんとフランシスコ教会(上右写真の奥に塔が見える)を見に行く。 ステンドグラスが綺麗。 ここも新しい。

それから、青空市。 レース編みを買いたいと思ったがピンとくるものがなくて、木しゃもじ二本を買っただけ。

12時20分 昼食 ZLATIN MEDO

ここには自家製ビールがあるとのことなので飲んでみた。ビールの味が分かるわけではないが、コク、苦味もほどよいと思った。 
スープ(ベーコン、野菜入りトマトクリームスープ)
ザグレブ風カツレツ(鶏肉にチーズ)きのこソース、マッシュポテト、フライドポテト添え 
野菜サラダ、 デザートはティラミス

     
     ティラミス
   
 ザグレブ風カツレツ  マット

13時50分出発

 
 破壊された家

途中で見た家は 新しい家が殆んど。

しかし 中には 銃弾の跡がある家も何軒か見た。
一軒だけ、屋根の抜け落ちている家があった。 
今回の旅行 初めて見る内戦の爪痕。 

右の写真は窓の外をヴィデオで写していて偶然捉えたひとこま。 
動いているので うまく撮れていない。

14時40分 トイレストップ

15時30分〜16時
小プリトヴィツェと称されるラストケ村の小観光
水の綺麗な川が流れ、小さい滝がいくつもある。

写真を撮るだけでなくもっとゆっくりくつろぎたかった。

   
   
 
 
 
 
 

16時35分 プリトヴィツェ イェゼロホテル着
公園内にある大型ホテルで、ほかにも日本人ツアーグループをみかけた。

 
 泊まったお部屋

ここではあらかじめ添乗員さんから「バスタブはあるが、排水がとても悪い」と注意される。
 
夕食まで充分時間があるので、そのまま散策なさった方もいらしたが私はお風呂。

ここの洗面台にカウンターはあるが狭い。
ティッシュペーパーもない。
旧東欧を意識して、ポケットティッシューをたくさんもってきたが、これまで殆どのホテルでは洗面台にティッシュボックスがあった。

 
用心のためシャワーにしたが、本当に排水が悪い。 
洗濯もしたが、水が流れてしまうのにずいぶん時間がかかってしまった。

 
この排水の悪さのせいか、上の階から水漏れがしてきた部屋があった。

19時 夕食 
スープ、 サラダ(キャベツが少し酸っぱくて美味しい)、ビーフステーキ(牛の味はするのだが硬い)フルーツサラダ

   
   
   
   

そのあと、ホテルのショップで、クロアチアの写真集と、絵葉書を買う。 
このホテルのホールにパソコンがおいてある。Aさんがご自分のホームページを見せてくださったので、黙っていようと思っていたが、つい私のホームページもお教えしてしまった。

21時半ごろ、寝る。