7日目

6月20日

プリトヴィツェ〜ザダル〜シベニック〜トロギール〜ドブロヴニク



6時30分 朝食  雨 外は15℃

   
 朝食  部屋のベランダ

昨日、現地ガイドが「今日は晴れの最後の日、あなたたちはいい時に来ました」と言っていたが、その通りになった。

8時 出発 時折雨が強く降る。 
ドライバーさんは「雨は山のこちら側なので、向こう側は晴れているだろう」と言う。 
この言葉に望みを託す。10分ほどで晴れて明るい日差し。ずっと周囲を高い山に囲まれたの丘陵地帯を行く。 
山には所々雪が残っている。気温は少し上がって18℃。

   
   

約1時間後、約6kmの長いトンネルを抜ける。サン・ロックトンネルらしい。2,3分後またそれほど長くはないトンネル。ディナール・アルプスを抜けているのだ。トンネルを出ると右手に川のような湖が見えた。でもどうやら、深く入り込んだ湾らしい。それにしてもこの灰色の丘、なんと表せばいいのだろう。最初は塩田がある地域なので、塩の山かと思ったが岩山であつた。 

 
窓越しなので 光ってしまった 

10時 ザダル着。

ザダルは 旧名ザーラ、この名を私は 塩野七生著『海の都の物語』と最近のカルチャー講座で知って、ぜひともこの町を訪れたかった。
 
ザーラは古くからの海洋都市だったところへローマ人が進出して、ダルマチア地方最大級のローマ都市となる。その後(3 〜5世紀)民族移動期を経て、東ゴート族が来襲、地震もあり、荒廃。 

537年に東ゴートが引き揚げて、6世紀からはビザンチンの支配を受けた。そこへ7世紀初頭、北東からアヴァール人や、クロアチア人(スラブ人)が海を目指してやってきた。 
9世紀、聖ドナトゥスの働きにより、自治が守られた。
11世紀にクロアチアに併合された。しかしまもなくクロアチアはハンガリーの支配下に入る。こういう状況のもと第4回十字軍による襲撃を受けたのである。
 

第4回十字軍を差し向けることがフランス貴族たちの間で決定されたとき、海路をとることにし、運搬をヴェネツィアに依頼した。つまり船や乗組員の調達を頼んだ。
1201年、ヴェネツィアはこれを引き受け期限までに調達した。ところが最初の意欲はどこへやら、フランス貴族の参加数は減り、十字軍側は資金が調達できなかった。
 

当時コンスタンティノープルへの中継地であるザーラは、ハンガリーの扇動でヴェネツィアに反旗を翻していた。これを快く思っていなかったヴェネツィアは「オリエントにいく途中、ザーラ攻略に手をかしてくれれば 借金の返済期限を猶予する」という話を持ちかけ、ここにキリスト教徒がキリスト教徒を攻撃する、という前代未聞の事態が起こったのである。

1202年11月、5日目にしてザーラは陥落した。こうしてザダルはヴェネツィアの手に落ちたがその後種々のいきさつから、ハンガリーに属したこともある。しかし結局15世紀から400年にわたってヴェネツィアの支配下に入った。
 

10時 バスは海の門のそばにとまる

   
 海の門、海側  海の門、 城壁内から見る
上のメダイヨンに描かれているのは、馬に乗った聖クルシュバン
の町には教会がたくさんある。
海の門から入ると聖クルシェバン教会があるが、修復中で見られない。見たかったロマネスク教会なのに残念。
   
 聖クルシュバン教会 
修復用の足場が邪魔だが、ロマネスクのアーチはみてとれる
 聖ドナト教会
 横の鐘楼は奥にある大聖堂のもの

の町で最もユニークな教会は聖ドナト教会
形がほぼ円筒形で上にウエディングケーキのようにもう一段のっている。9世紀に建てられたプレ・ロマネスク。 
円形だが半円形祭室が三つ付けられている(写真右に二つ見える)。

ビザンチンやカロリング朝の円形状宮廷教会からロマネスク建築への過渡的様式とみなせることをカルチャーセンターのT先生の講座で聞いた。是非とも中を見たかったが、見ないでそのまま横のローマ時代のフォーラムの説明に入ってしまった。
 
 ローマ遺跡 殆んど残っていない
ここにはローマ時代の石棺らしきものが沢山置かれ、半分の柱などもある。
   
 奥は 聖ドナト教会  石棺
 
聖ドナト教会もこのフォーラムの石材を利用して造られている。 
面白いのは基部。写真で見て「なぜ歯車があるのか?」不思議だったが、これは縦に溝彫りのある柱の一部を寝かせて使っているのだ。それにしても乱暴な使い方。
     
 聖ドナト教会 基部  恥の柱  恥の柱 頭部 サンマルコのライオン
フォーラム広場には 一本だけローマの柱が残っている。中世、悪事を働いたものがこの柱に縛られて笑い物にされたので、 恥の柱 という。
 
ぐるりとまわって、聖ストシャ大聖堂

13,4世紀のものだが ロマネスクの半円のアーチ列で飾られている。
  
 聖ストシャ大聖堂 

ストシャとは聞いたことがない名前だと思ったが、アナスタシアのことだそうだ。 
この教会は先ほど述べた、第四回十字軍のころ建設中だったが、攻撃を受けて破壊され、
1324年にやっと完成したもの。 
この教会は第二次大戦でも連合軍の爆撃にあったそうだが、修復されている。

入口の彫刻もなかなかいい。 
 
 聖ストシャ大聖堂 正面入り口
 
 

ここは中に入った。

アナスタシアはローマ時代キリスト教を信仰したために、火あぶりにされて殉教した聖女。その石棺があった。

ここを出た頃から雨が降り始め、この町のメインストリート、シロカ通りを歩くうち、どんどん強く降ってきた。 
このあたりは戦災を受けたので、新しい商店街が続いている。時計塔のあるナロドニ広場に着いたときは、お店に強引に入って雨宿り。時計塔があると言われても傘が邪魔で全く見えない。添乗員は、もはやこれまでと思ったのか、皆をレストランに連れて行った。

私は自由時間に行きたいところがあったのであせったが、レストラン予約は12時なのでフリータイムにして「休みたい日人はレストラン、買い物をしたい人は自由に」ということで、
1120分 私は考古学博物館を目指した、といっても遠くはない、聖ドナト教会の前である。ナロドニ広場から先の観光が削られたのはちょっと残念だが、おかげで自由時間が思ったより長くとれる。
それで、先ほど入らなかった聖ドナト教会にも入ることにした。(10クーナ)
中はがらんどう。8本の柱がドームを支えている。ローマ時代のものの転用と思われる彫刻のあるものがある。
   
 聖ドナト教会内部
階上廊がある
 三つの半円形祭室
   
 基部は ローマ遺跡のものか?  はっきりしないが ローマ時代の溝彫りのある柱

そのあと、楽しみにしていた 考古学博物館へ(10クーナ) http://www.amzd.hr/index.php?lang=english 
(この博物館については 旅行社のIさんにお世話になった。感謝しています)

一階に中世の彫刻が展示されている。

この彫刻を見ることは今回の旅行で最も楽しみにしていたことの一つ。

下の写真二枚は 1030 年〜40年の作品、 ザダルの「聖ドミニカ教会」にあったもの。高さ1mくらい、altar rail 祭壇の横板(?)
下のと二枚対になって飾られている。
 
 左 ヘロデ王の嬰児虐殺(赤ん坊が逆さ吊り)隣で母親が泣いている。中央は エジプト逃避 、右は 洗礼 の一部分らしい
 
 左 マリアのエリザベト訪問、 ご生誕、下は 産湯をつかわせているところ、 羊飼い 右は 三博士の礼拝
マリアとエリザベトが 嬉しそうに抱き合っているところとか、
真ん中の三人(羊飼いだと思う)がかたまってのぞいているところなど、ほほえましい感じがする。
 
≪ 拡大する≫  
横になっているマリア様の手は どうやら交差して、下になった右手でイエス様をなでようとしているように見える(ちょっとずれているが)
一番左の羊飼いの右手、体を支えて一生懸命のぞいている、という様子がよく表れてるように思った。
分けのわからない手もある(分け入ってのぞこうとしている真ん中の人の手?位置が低すぎる気がするが、そう思うといよいよ面白い)
どれも眼、衣紋が特徴的で 正面を向いている、というところが 時代かな?
しかし人間味豊かで 私は大傑作だと感激した。 
上のエジプト逃避などとは 作者が違うように思うが、どうだろう 
 
 石棺 (たぶん9世紀)
 
 

感動、あまり時間もないので慌ててバシャバシャ写真を撮ったが、腕もカメラもよくないので、あまり鮮明に撮れていないのが残念。

 
 11世紀 ザダルの聖ローレンス教会にあったもの
マリアのエリザベト訪問、ここでも二人は ぴったり顔を寄せ合っている。
 ご生誕 マリア様がグルグル巻きで横になっている下で産湯 
その下が馬に乗った 東方の三博士
 
 9世紀の戦士象
   
 チボリウム(天蓋)
アーチの紋様が ケルト写本で見かけるもののようだ
 この石棺彫刻は 実に細かくびっしり埋め尽くしている
 
 上の石棺(9世紀) を横から見たところ 
 
 聖ストシャの石棺(レプリカ、 実物は 大聖堂にある)
嬉しくて嬉しくて、興奮しながら、博物館をあとにした。
そのUに続く