7時 朝食
ここでは卵をコックさんが調理してくれる。
私は オムレツを頼んだ。
今日は半日ドブロヴニク旧市街観光
午後はフリーという予定
ところで このドブロブニクという町は現在、クロアチアという国の一都市ではあるが、ほかのクロアチアの町とは違ってもともとは、ドブロヴニク共和国という都市国家だった。
旧市街の一部は昔、海岸沿いの岩島だった。
本土の海岸沿いに住んでいたローマ人が、7世紀にスラブ人の攻撃を受けてこの島に逃れてきたのが町の始まり。
しかし岩でできた小島であるため、食糧と水は外部から供給する必要がある。
そこで、スラブ人と取引をするのだが、やがて両者の関係は穏やかになり12世紀にはローマ人(ラグーサ人と呼ばれた)とスラブ人の町は合併、間の海も埋め立てられた。
島と陸徒の間の海だったところがプラツァ通り
もとは島だったところが(下の写真では左側になる)ラグーサ人,陸側がスラブ人の町。
ドブロヴニクとはスラブ語の名称で、ラテン語ではラグーサという (小説などでラグーサという名で出てくることがある)
この共和国は、通商によって生きてきた。
このバルカンという場所は、ビザンチンの後はハンガリー王国の南下、その後オスマン・トルコの北上、と大国に侵入され、また沿岸部はヴェネツィアにねらわれた。しかしドブロブニク共和国は、巧みな外交政策(大国の宗主権を認め貢納金を払って)で自治権を維持した。
1203年、第四回十字軍のときから、ヴェネツィアの実効支配を受けたが1358年には自治を回復。その後のオスマントルコの時代も貢納金を払うことにより、さらに貿易を拡大、繁栄を極めた。
ところが1667年に大地震が起こった。これが 終わりの始まり。
五千人以上の人が亡くなり(その中には総督も含まれていた)町は壊滅。しかし住民は逃げ出すことを許されず、家を建て直させた。そのため建物はバロック様式が多くなっている。が、かつての繁栄は取り戻せなかった。
1808年にナポレオン軍に服従、共和国は消滅した。
その後オーストリアの支配を受け、第一次大戦後はユーゴスラヴィアの領土となった。
8時30分 バスで出発
まずは少し高いところから 旧市街を展望。 ちょっと遠い。丘の上にはナポレオン時代の要塞があった。
下の写真で中央より少し右の塔(二つ重なっている)のあるところから奥へプラッツァ通り、左ががもとは島だった。通りのつきあたりがピア門。
9時10分、旧市街に入る門の一つ、ピレ門に到着。
21℃で歩くのには丁度良い。門から階段を少し降りるのだが、その途中の壁に、内戦で銃弾を受けたところが地図上に示されていた。しかし町は見たところほぼ完全に復旧されていることがこの後の観光で分かった。
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赤が焼け落ちたところ、そのほか爆撃を
受けた場所が印されている
右が旧港、中央より少し上を横切っているのが
プラッツァ通り
(つまりこの地図を90度右回転すると上写真に一致する) |
オノフリオの泉 |
城壁内に入るとすぐオノフリオの泉。円屋根でトルコ風だと思ったが、1438年にこれを造ったオノフリオはナポリの建築士だそうだ。何しろ岩島、水がないので10q先の水源から水をひいている。
今も飲める水があふれ出ている。ここをまっすぐに貫いているのが200メートルあまりのプラツァ通り。
観光は、もともとは海(細い水路)だったプラッツア通りを進みながら。
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午後、城壁の上から撮った写真、(ピア門の上) 上の写真とは方向が逆 、
中央がプラッツァ通り 左が聖フランシスコ修道院、奥が市の時計塔その奥が旧港(見えない) |
左手には、救世主教会、その隣の聖フランシスコ修道院に入る。
入り口の上のピエタ像(これは 大地震でも壊れなかった)はペトロヴィッチ兄弟作(1491年)。ちょっとミケランジェロの作品に似ているが、ミケランジェロよりゴシック風と言われている。建物は大地震のあと建てられたものだが、回廊は14世紀のままである。
クロアチアでは一番古い(1391年開業)薬局もある。(写真撮影禁止) 。
スペインのシロス修道院の薬局と似ていた。
プラッツア通りをさらに進む。市の衛兵の行進があった。
左手の小道に入る。ここはユダヤ人街。しかしプラッツァ通りから左右に何本もある小道と全く変わりはないように思える。細い道の半分をレストランのテーブルが塞いでいる。
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ジュドゥイスカ通り(ユダヤ人街)
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ユダヤ人街を抜けて右に曲がると聖ニコラ教会
その左にドミニコ会修道院 |
ドミニコ会修道院に入る。15世紀にゴシック様式で建てられた。この回廊も素敵だ。なんとナポレオン軍が馬の水飲みのために穴をあけている。
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馬の水飲み場として穿たれた穴 |
ここはまるで、美術館。素晴らしい絵がたくさんある。だいたいは国際ゴシック風の絵。(私はこういう絵が好き)写真撮影禁止なので、買ってきた 絵葉書から
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ロブロ・ドブリチェヴィッチ作
キリストの洗礼の一部
1448年 |
ニコラ・ポジタレヴィチ作
聖母と聖人たち 16世紀 |
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ニコラ・ポジタレヴィチ 作 受胎告知の一部 、左のドブロヴニクの主語聖人聖ヴラホが 町を持っている。
大地震の前の町の様子を知るてがかりになっているそうだ |
ボジタレビッチ「聖母子と聖人たち」などは修道院にある。
パオロ・ヴェネツィアーノの「キリスト磔刑図」は教会のほうにあった。 教会には、メシュトロヴィッチのピエタなども。
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パオロ・ヴェネツィアーノ 作 磔刑 |
そのUに続く
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