5時 起床
7時20分 朝食
今日も オムレツを焼いてもらった。
部屋に戻る前にフロントで昨日のルームサービスの支払いを済ませた。180クーナ(約3600円)。
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焼いているところを
撮りたかったのに |
またひとしきり 海を眺める |
9時出発
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これらは 軍のものだろうか? |
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新港 クルーズ船、観光船、個人用ヨットなど、 |
今日はお天気がいいので海岸線が美しい。モスタルには内陸から行くルートもある。それだと、見たいところがあったのだが、、、。
10時過ぎ、ストンの近くを通る。かすかに城壁が見える。これはイギリスのハドリアヌスの城壁に次ぐヨーロッパ第二の長い城壁。ストンは塩田でも有名である。昨日ストン産の塩の小袋を買った。
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ストンの町 山腹に城と城壁 10時13分
黒い点々はムール貝の養殖,貝をとる小舟も見える |
10時20分〜10時35分 ネウムでトイレストップ兼ショッピング。
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10時59分に撮ったかわいい村 |
ここでクロアチアのお金、クーナを使い切る必要がある。チョコレートを二つ買った。
11時前ネレトヴァ川、ときおり強い雨が降る。川の河口の湿地帯には果樹などが植えられている。一昨日も見たが、水路の形が面白い。
どうも渋滞しているな、と思ったら国境通過で車が止められているのだった。
11時35分 国境
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ 入国
11時50分ごろ、 ボスニアに入ると早速モスクを見た。(ボスニア・ヘルツエゴヴィナは 長いので、適宜ボスニアと表わす)
トルコの支配を受けた地域だけに、ミナレットがトルコと同じ鉛筆形。
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モスク |
川沿いの平地では農業が盛んなようだ。 ビニールハウスも見た |
バスはネレトヴァ川を左に見ながら進む。石灰岩の岩山の間を抜け、ブドウ畑の横を走る。道で果物を売っていた。ときおり、古ぼけて屋根に赤さびの浮いた工場(セメント工場?)が見えた。
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ネレトヴァ川 まだこのあたりは平地 |
行きすぎて撮ったので分かりにくいが、 果物を売っている |
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キリスト教の教会も見かけた |
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崩壊した家や 墓地も見かける。
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ブドウ畑 あの塔は何だかわからない |
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12時35分 モスタルの町はずれの駐車場に到着。
モスタル、というのは橋の守人という意味。
モスタルは1468年〜1878年 トルコの支配下にあった。
もともとネレトヴァ川の川幅が狭まるこの場所には木の橋が架けられていたが、1566年トルコ人技術者により、石橋に造りかえられた。それがスタリ・モスト(古い橋、という意味)である。
そのU にのせた写真のように、間に橋脚がなく美しいアーチをえがいている。
これは世界遺産に登録されていたが、内戦で93年に壊されてしまった。
川に落とされた石を拾い上げ、足りないものは、建設当時と同じ石切り場から石を切り出してきて、2004年に復興させた。
こういう話もあるせいかよけい、この町は観光客を集めているようである。
バスを降りるとすぐ目につくのはいやに立派な新しい教会の鐘楼。と思うとすぐそばに銃痕のたくさんある高層アパート。
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外壁が塗装されている部分と被弾したままの部分がある |
新しいカトリック教会
1866年建造だが、内戦で破壊されて再建された。
18世紀以降トルコの衰退とボスニアの反乱から、
1864年にカトリック教会堂の建設は許された。 |
歩き始めて、「ああやっぱり」と思ってしまったが、凄まじい破壊されかたの家がある。
商店街もきれいな建物の間に、破壊されて枠組みだけになった建物もある。建てなおす資力のある人は建て替えるけれど、手の打ちようもない人もいるのだろう。
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凄まじい破壊のされかた、
ここでもラベンダーが美しく咲き誇っていた |
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世界遺産の橋スタリ・モストを渡って旧市街へ。川は町中を流れているというのに、とても水がきれいだった。
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橋の上から 川沿いにあるのが昼食後行くモスク
昼食レストランは川の右手の道の奥あたり |
道路が玉石のモザイクになっているので歩きにくい。 雨が降ってきた。
12時50分 レストラン KULLUK で昼食
(日本風に言って)一階と二階と両方に客席がある。 オーナーとおぼしきやや太めの男性は、よくもまあ疲れないな、と感心するほど、階段を駆けあがったり駆け下りたり、忙しげに働いていた。商売繁盛と見た。
サラダ、 ムサカ(ジャガイモとひき肉をいためあわせたもので、ちょっとこげていたが、とても美味しかった。日本人にはなじみやすい味) フルーツ
そのUに続く が その前に 90年代の内戦理解のために、 ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史と セルビア人クロアチア人について私の理解した範囲で簡単に記しておく。
主に 『ボスニアヘルツェゴヴィナ史』 恒文社 ロバート・J・ドーニャ ジョン・V・A・ファイン 著 から
今日ボスニアに暮らす人々の大部分は 6世紀から7世紀に移住したスラヴ人の子孫。
セルビア人、クロアチア人という名称は 二次的な移民集団の民族名称に由来。
両者は おそらくイラン系で 7世紀になってユーゴスラビア北部に出現
ユーゴスラビア北部、 中部のスラヴ人を支配したが 数的にわずかで間もなくスラヴ人に同化され、 クロアチア人、 セルビア人という名称が残るのみとなった。
ボスナ側の水源付近に中心をおいていた領邦が ボスニアとよばれていた。 これが勢力を拡大していき、13世紀、現在の共和国の領域と同じ版図をおさめるに至り、この全版図が ボスニアとよばれるようになった。
中世を通じてボスニアは 独立国で その後400年に及ぶトルコ支配の時代にも 独立の行政州として、 一体性を保持してきた。 セルビア、クロアチア両国が、一時期、部分的にボスニアを領有していたこともあったが、それをもって領土分割を要求できるほど、永続的ではなかった。
宗教については、11日目V (明日のボゴミル墓石のところ)で書く。
トルコ支配により、(1465年までにオスマン・トルコは ボスニアのほぼ全域を支配下に収めた) イスラム教が入ってきて、この地域の宗教はイスラム教、正教、カソリックと三つになった。
大土地所有者など社会の上層部はムスリム(イスラム教徒)で、 カソリック教徒は 農奴・小作人など下層階級が殆んどだった。
そのため、農民反乱など、正教徒、カソリック教徒がムスリムに対して、反旗を翻すこともあったが、 これは 宗教対立ではなく、支配者に対する社会的、階級的反乱。中世において宗教的要素を持って内戦は一度も発生しなかった。
オスマン支配の初期にはどの宗教に加入することもできたが、19世紀中ごろには、個々の宗教共同体を隔てる垣根がすでに固定化していた。
1878年に始まるオーストリア占領期に民族主義を推進する勢力が 民族思想を広め始めた。
カソリックは フランシスコ会のもとにあったが、 聖職者の殆んどがクロアチア出身のクロアチア人か、クロアチアで教育を受けたボスニア人であった。19世紀にクロアチアで 民族主義思想が生まれると、フランシスコ会の経営する学校も、クロアチア民族主義にカトリシズムの教義と同程度の力点をおくようになった。 この学校で学んだ者たちの中から、カトリックであると同時にクロアチア人であるという意識をもつ者が生まれたのだ。
また正教徒の教育は、都市では、世俗の正教徒が支援して比較的高い水準の学校が設立されていたが、俗人教師の多くは、セルビア自治公国に影響されてセルビア人意識をもつようになり、生徒たちに、正教徒はセルビア人であると教え込んでいった。
こうして、同じボスニア・ヘルツェゴビナに住む南スラブ族で、違いは宗教であったのが、セルビア人、クロアチア人という民族の違いを表わすような呼称に変わった。 なお、宗教といっても、現代では 熱心な信者がさほど多いわけではないので、 この本では 宗教的帰属、 という言い方をしている。(宗教的帰属という語だと、我々日本人の多くが宗教を聞かれて、ちょっとためらって「仏教」 と言うような場合にも使える)
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