バスを降りて、バシチャルシアという職人街に向かう。途中ミリヤッカ川に面して、修復中のネットがかかった建物を見た。
これは国立図書館。以前は市庁舎で、オーストリア皇太子夫妻が襲撃される直前にここを訪ねたそうだ。
ガラスは無くなって板があててある。無残な姿だがよく見ると、昔の美しさが偲ばれる。
爆撃を受ける前の写真(パンフレットから) 1896年竣工 アラブ風の素晴らしい建物だ。
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爆撃を受ける前の国立図書館 |
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トルコ風レストラン ボサンスカ・ワチャ
壁には 台所道具などがかかっている。
スープ、 サラダ, スープ、チェバプチチ(ひき肉を丸めたようなもの、味は良かった)、ココナッツケーキ(激甘、でもココナツのシャキシャキ感がよくて私は美味しいと思った)
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よく写っていないがランチョンマットも素敵 |
焼き立てのパン |
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チェバプチチ |
ココナツ・ケーキ |
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ここではトルコ風コーヒーが飲める、というので注文した。
皆さんあのドロドロはどうも、と思われたのか他に注文された方はいらっしゃらなかったが 濃いめのエスプレッソという感じで 残り滓で占いができる、というシロモノではなかった。
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お店の入り口で パンやお肉を焼いていた |
13時5分 ガイドのアナイット君(23歳)の案内で観光開始。
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旧市街 右上に少し見えているのが国立図書館 |
ともかくモスクが多い 墓地も |
まずはバスに乗って(バスは国立図書館前まで来ている) 1984年に開かれた冬季オリンピックスタジアムに向かう。
オリンピックスタジアムに近づくにつれ夥しい数の墓標。ここは車窓観光で降りなかった。
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このあたりはキリスト教徒のお墓 |
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ここはイスラム教徒のお墓
ここは五輪スタジアムの補助グラウンドだったが、紛争中に犠牲者を墓地に運ぶことができず、埋葬する場所もなかったため、グラウンドを墓地にした。右に見えるのがアイスアリーナ、ゼトラ
砲撃により廃墟と化し、 国連や 和平安定化部隊の基地として 使われていた。
99年3月復旧、 7月には バルカン・サミットの会場として使われた |
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オリンピックタワー
カーソルを写真の上に置くと
上部の拡大 |
少しは近くで墓碑も見たかった。『地球の歩き方』によると、墓碑には、1992年〜5年と書かれている、とある(もちろんだが) そこをきちんと見ておきたかった。
それにしても、お墓、お墓。胸のつぶれるような思いで窓の外を眺めた。痛ましさに皆声も出ない。出るのはため息ばかり。
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町中に戻ってきた、公園も墓地として使われている。 |
14時過ぎ トンネル博物館へ
1993年、内戦のとき、サラエボでは中心街と少し離れた空港の向こうがボスニア地区で空港のあたりは、狭くくびれていて、セルアビ軍が迫っている。 空港を通って向こうに行くのが危険なので(こう説明されたが、ある資料によると、空港は国連管理下にあり、一般人の通行を認めなかった そうだ)トンネルを掘って、物資の輸送などに使った。
今パレスティナのガザからエジプトに抜けるトンネルがあるようなものだ。民家の地下が入り口になっている。
地下に入るって、まずビデオで内戦当時の様子を見た。
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途中で見た モダンなビル |
トンネル、 トロッコ用のレールが敷設されている |
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トンネル博物館 |
ビデオを見る |
サラエボだけで死者は一万一千人を超すそうだ。(国全体では20万人以上の死者、250万人を超える難民・避難民が生じた。ちなみに国の人口は現在 450万人)、スナイパー通りを駆け抜ける人、 夜の空爆 国立図書館が爆撃されて窓から火を噴き出している様子など また トンネルを通る人、ヤギを連れた人などが 映されていた。
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爆撃されて窓から火を吹く国立図書館 |
いそいで駆け抜ける人 |
トンネルは距離が800メートルで幅1メートル、高さは160センチ。中ににはトロッコ用の幅の狭いレールも敷設されている。内戦終結後崩落。今はその民家から20メートルくらいは進むことができて観光客に開放されている。
私なら背をかがめず通れるが、高い人は無理。説明の後トンネルを通って地上に出て、地図を見ながらまた説明。
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オリンピックのときの案内板を利用して、 当時の勢力分布が表わされている |
赤のラインで囲まれピンクに塗られたところがセルビア軍、 中央SARAJEVOのAのところのビル群のひとつがホリデーインホテル、その向こうの黄色く塗られた道がスナイパー通り、 青がミリヤッカ川、 ホテルが如何にに前線に近かったかが分かる。
右手、赤のラインが狭まって戦車が向き合っているところが空港。 青い滑走路を挟んで黒くて小さい二つの半円が トンネルの出入り口
中央手前に先程のゼトラ。旧市街はゼトラをはさんで左側の川近く。。
このあとまた 市の中心に戻る。途中セルビア人地区の花屋さんにはキリル文字。
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花屋さん 文字がキリル文字 |
このあたりも墓地が多い。ともかく市の中心部も墓地だらけ。
それにしても、オリンピック競技場の墓地といいこのトンネル博物館といい、悲しい歴史が観光のウリになっているなんて、ガイドさんもつらいだろうと思った。
途中で町を概観、山の斜面に沿って住宅地がある。
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左の青い尖塔のすぐ右、森の向こう うっすら黄色いのが このあと行く セルビア正教会、
右中央の灰色のビル(左側に青い垂れ幕)が 国会図書館 |
バスが町中でユーターンできないため 少し川沿いに山の中にはいった。
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山の上に トルコ時代の要塞跡 |
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ミリヤッカ川 橋は ヤギの橋 |
その後の話で分かったが、彼はオリンピックの二年後に生まれて家族とオーストリアに移住。終結後10歳のとき、彼は戻りたくなかったが母親が帰りたがったので、サラエボに戻ってきたそうだ。
そのVに続く
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