11日目
 
そのW



1830分ごろ ホリデイ・インホテルへ 
このホテルは スナイパー通りを隔てて国立博物館に向かい合っている。 
博物館の開館時間は16時までだが,中庭に大きいものが展示されているはず。
私の見たいボスニア(ボゴミル)墓石が見られるのではないか?  
夕食は
19時からだ。
お部屋でスーツケースが届くのを待って、カメラとルームキーだけを持って大急ぎで飛び出す。
スナイパー通りを渡るのだが、これがずいぶん広い。片側三車線で中央にトラム(路面電車)が走る。内戦時ここを駆け抜けるのがどんなに恐ろしかったことか。
 
丁度ホテルの前がトラムの停留所。そこに一人ジプシーの子供がいた。はっとして身がまえてしまったが、悲しそうに靴で地面をけっている。きっと家族の帰りを停留所で待っているのだろう。ジプシーというと 観光客はすぐスリを連想する。申し訳ない気持ちになった。この町のガイド氏は、ジプシーは別に悪いことはしない、と言っていた。添乗員はそれでも気をつけるように言っていたが、、。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、モスタルとサラエヴォという二つの町を訪れた。それぞれ違う現地ガイドに案内された。この二人の個性の違い、というのが大きな要素と思うが、私には町の印象が違って見えた。 

モスタルは、スタリ・モストという世界遺産をもつせいか、 観光に力を入れて張り切っている、という感じなのだ。 
ガイドは テキパキとした利発な女性だったし、昼食レストランのオーナーとおぼしき男性は 少し太めにもかかわらず、 階段を絶えずかけあがり、かけおりて、 忙しげに働いていた。 
その一方、 ほどこしを乞うジプシー、また 不良、といった感じのジプシーの子供たちをみかけた。 あの荒れた感じは もしかしたら、観光による町おこしには 邪魔者でしかない、とされていることから来るのではないか、という感じを持った。

サラエヴォは 町の規模が大きいせいか、復興にはまだまだ時間がかかりそうだが、 ガイドのアナイット君はジプシーを排他的には見ていないようだった。アナイット君は色が白くなかなかハンサムな青年。時には笑顔をみせたが、どちらかというと憂鬱そうな感じだった。最もこれは私の思いすごしで、単に彼は少しシャイなだけのかもしれないが。 
あまりにもお墓が多いせいもあって 憂愁に沈んだ町のように思えた。

  

何とか道を渡って国立博物館の前に行く。向かって右手には、ローマ時代の石碑がある。見たいのはこれではない、はやる気持ちをおさえて左に進むと、あった!見たいと思っていたボスニア(ボゴミル)の墓碑石棺。 
少し彫りは浅いが、特徴的な戦士像渦巻き模様(この二種類がボゴミル墓石として、本によく取り上げられている)
そのほか、狩りや、ダンスをしている図、変形ケルト十字のようなものまである。本当に面白い。出土した場所、年代などがを記したプレートでも付けてあればいいのに。
館内には とっておきの質のいいものがあるのではないか、と入れないのがとても残念。

 写真は 付近の様子が分かるように、わざと周辺をカットしていないものもある。 大きくしたものが とくに大事、と思ったものというわけではなく 模様をはっきりさせるためである。
   
大きな手を持つ戦士、 上に弓  変形ケルト十字だが彫られた図や文字が違う
   
渦巻き トラムが 走っているのが スナイパー通り  右の石棺の反対側 (ブドウ?)
   
   
   
 ?パルメットのように見える
そこに十字? でも下のはT字
 ブドウの木?
   
      狩り、それとも戦闘に出発? 女の人が見送っているようだ  ダンス、 体に縞が入っているのは 甲冑か?
 
 アフリカの岩絵にこういうのがありそう
 
 
 
 
 
 狩り 向こうの黄色い建物が ホリデイ・イン ホテル

ここで、ボゴミル派とボスニア・ヘルツェゴヴィナの歴史について少し記す。
6,7世紀にスラブ諸族がバルカン半島にやってきて、ほぼ今日とおなじ場所にそれぞれ(スロヴェニア、クロアチア、セルビア、ボスニアなど)住みついた。
ボスニアという名は ボスナ川にちなんだ名前。ボスニアの一部はつぎつぎ、近隣の国に支配されたが、山がちで交通不便なので、さほど重要な影響は及ぼしていなかったらしい。
セルビア人やクロアチア人の国が ボスニア領内のいくつかの地域を併合したことがあっても人々の忠誠を確保したり、領土要求をつきつけることが出来るほど、長期にわたって支配したわけではなかった。 
東西の合流点というより、二つの世界の間の無人の荒野だった
で12世紀後半からは、ハンガリーの宗主権下におかれたが、これは名目的なものであった。
このころ、クリンという人が ボスニアの独立を唱え中世ボスニア王国を築いた。 
モスタルを中心とする、現ヘルツェゴヴィナ地方はセルビアの支配のもとにあったが、14世紀にはこの地方をも支配し、アドリア海沿岸地域を含む大国になった。 
15世紀後半にオスマン・トルコの支配下に入ることになった。
 
ここで、同じようにトルコに支配されたセルビアが正教を守ったのに、なぜボスニアが、イスラム教をうけいれたか、という疑問が浮かぶ。
これまでは、ボスニアではボゴミル派の異端が広がっていて、カトリック側からも正教側からも侮られていたのでイスラム教をうけいれたのだ、とされてきた。(『バルカン ユーゴの悲劇』や、旅名人ブックス、クロアチア でもそのように書かれている) 
ボゴミル派とは、ペルシャのマニ教に端を発するといわれ、10世紀、ブルガリアのボゴミルという司祭が起こしたとされている。善悪二元論を唱える宗教で、この世は悪魔によって作られた世界だとして徹底した現世否定を唱えた。キリストの受難も教会の組織も否定したので、異端とされて迫害されていた。
13
世紀ごろ、南仏を中心にひろがったカタリ派この流れを汲む、とされている 

しかし最近の研究では、当時ボスニアではキリスト教をうけいれていたが、信仰は粗雑なもので、ローマから信仰上の誤りを指摘されても仕方がないものではあった。がボゴミル派と違って、全能なる神、三位一体、教会、十字架、聖人信仰などを受け入れていたことが明らかとされ、カトリック教会内の分離派に過ぎない、とされるようになっている。これをボスニア教会という
 ハンガリーはボスニアの独立傾向に不満で、ボスニアのカトリシズムが異端であるという口実で、軍事介入、しかし、タタールに侵入によりハンガリーは退いた。 
この時、ボスニアのカトリック教会をハンガリーの大司教区に移管させようとした。ボスニアはこれをけって、ハンガリーからの司教を追い出した。こうして、ボスニア固有の独立教会が設置された。
これをボスニア教会と呼ぶ。

ボスニアにはそのほか、セルビア教会、フランシスコ派の修道院も存在した。


しかし、ボスニア教会は強固な組織はもたず、住民は強い信念を持ったキリスト教徒ではなかった、と結論づけられている。 そういうところに、オスマン・トルコが やってきた。イスラム世界は一般に宗教的には寛容で、税さえ払えば信仰は自由、しかし公職で栄達を望むならイスラム教徒である必要があった。 
そこで、この地の人たちは新宗教に改宗というよりこれを受容した。 
しかし、ボスニア教会の信者全てがイスラム教に改宗したわけではない。15世紀末から16世紀にかけて、ムスリムは増加したが正教徒も増加している。これはセルビア本土の征服に伴う移住やカトリックからの改宗による。オスマン・トルコは十字軍を派遣したローマのカトリックより、イスタンブールに総主教がいて御しやすいセルビア正教のほうを好意的に扱った。しかし
正統派カトリックに改宗した人もいたそうだ。
これは 現在だが、 『地球の歩き方』 によると、 
ムスリム人44%、セルビア人(セルビア正教徒)31%、クロアチア人(カソリック教徒)7%
ボスニア・ヘルツェゴビナ史によると、
19世紀末では、 正教徒67万人、 ムスリム 55万人 カトリック教徒333万人、ユダヤ教徒8213人(セルビア人、 クロアチア人といった分け方でないことに注目)
ボスニア・ヘルツェゴヴィナはムスリムの国、ムスリムが 絶対多数を占めているかと思っていたが とちょっと意外な数字。
1971年から、セルビア人とムスリムの人口が 逆転している。

そこで、ボゴミルの墓石 とこれまでよばれてきた独特の彫刻がある墓石も ボスニアの墓石 と呼んだほうが適切、ということになる。(この墓石に書かれた亡くなった人の名には 明らかにカトリックの信者もいるという)

ゆっくりしていられない。いそいで ホテルに戻るともうみなさんロビーに集合。迷惑をかけるといけないので、そのまま 部屋には戻らず、テーブルについて、飲み物をたのんでから、部屋にバッグを取りに戻る。 
このホテルは ホリデイ・イン。他の国では四つ星でもさほど、というホテルだが、ここはちょっと高級感がある。 ロビーが吹き抜けでエレベーターが中ほどにある。吹き抜けをぐるっと囲んで客室。慣れないとちょっとわかりにくい。でもホテルの人は親切だし、きちんとした感じだ。 
さてお食事 
ワインはグラスではなく200mlの小瓶 白はドブロブニクのミニバーのと同じ。でもお値段がずっとこちらのほうが安い。4ユーロ
(760円)、ドブロブニクでは60クーナ(1200円)!!

お料理のサービスの演出がいい。よく温かいものをサービスするとき、ステンレス製などのふたをお皿にかぶせて持ってくることがあるが、ここはトルコ風というのか、素敵な形の彫り物もされているウオーマー。早速カメラに収める。
スープ 野菜の肉詰め ケーキ
   
 各自こうして供される  ふたをとると スープ
   
   ドルマ(野菜の肉詰め) 
これも左上のふたがかぶさってきた
   
 パイ生地にナッツ類が 甘く味付けされて入っている  バースデーケーキ
   
   お皿には オリンピックのマーク
 このホテルはオリンピックのために建てられた

Fさんお誕生日が帰国日なのでなので、今晩は早目のお祝い。 
彼女がバースデーケーキのローソクを吹き消ししたあと、お相伴にあずかった。