8日目

そのⅡ


1345分頃 出発  
またダヴオス湖をみて東に折れる。どんどん山の中を行く感じだ。雪渓が道路までせまっている。
 

   
 14時5分 どれかが ヴァイスホルン  14時13分


14時16分 ヴァイス・ホルン(3085m)と言われたが、上の写真のどれかはわからない。(実をいうとこの中にあるのかも分からない) 
下写真、谷の奥がオーストリアのエッツタールアルプス

このルートは オーストリアとの国境から10㎞位のところを国境沿いに走っている。

 
 谷の奥が オーストリアのエッツダール
フリュエラ峠(2383m)ここは冬の間は閉鎖されているそうで、カートレインを利用するという。
フリュエラ峠を越えるところあたりで 道路工事のため2,3回止められて大分時間をロスした。
   
フリュエラ峠   自転車で 峠越えの若者(?)も足止め

ツエルネッツを過ぎ
(前はここまでサンモリッツから列車できてポストバスに乗って国立公園を抜けていったことを懐かしく思い出した)
   
   
オッフェンパス(2149)を抜けてサンタ・マリアの町を過ぎるとミュスタイアだ。
   
   峠を越えると 南国的になる

1540分 ミュスタイア着 

修道院から道をへだてたところの広場にバスがとまるポストバスの停留所ではない。(もしかしたら現在はここかもしれない。以前はバス停からだと10分くらいかかった記憶がある)

1550分 ザンクト・ヨハン修道院 ミュスタイアの修道院 - ユネスコ世界遺産(修道院の全景が見られます)
  Kloster Müstair 修道院のホームページ
775
年 カール大帝がロンゴバルド王国を滅ぼした翌年に建てさせたと言われている。外観を撮り忘れたので、古いが96年に撮った写真をのせる。

   
 修道院配置図(買ってきた小冊子より)  左手前は 教会  奥は プランタの塔
   
 鐘塔(1530年) と 教会(アプシスが 三つ)
左の工事用テントの向こうが教会への通路
 東側は 墓地

紀元800年にフランク王国のカール大帝は西ローマ皇帝として戴冠した。このミュスタイアはフランク王国のアーヘン、サン・リキエ(北フランス)からイタリアへのルート上で要衝の地であったため、カール大帝の命により建てられたといわれている。(カロリング朝時代このような要衝の地に修道院を建て、急な事態をすぐ把握できるようにしていた)
最初は男子修道院だったが、
12世紀に女子修道院となりそのとき壁画も描きかえられた。(現在は 修道女13) 
教会堂に入る。

   
   

柱によって三身廊に分けられているが、もとはこのように分割されていない。一身廊で天井も木で平らだったが15世紀の改築で天井は現在のようになった。

 
 カール大帝

左手の北壁と正面に壁画がある(南面は少しだけしか残っていない)。 赤茶色の壁画がカロリング朝のもの(年代は確定できていないが、9世紀前半だとされている)。壁画は色が薄くて判読がむずかしいが、分かるのをいくつか載せる。

   
   栄光のキリストと四福音書記者と天使たち    ペテロとパウロに 鍵と書物を渡すキリスト
   
 南アプシス 十字にメダイヨンのキリスト エジプト逃避
 
 

カロリング朝のものより色鮮やかで目を引くのは1200年頃に描かれた壁画。前に来た時はよく知らなかったのでヨハネの首にビックリして、何故?と思ってしばらくしてやっとここは聖ヨハネ修道院だから、洗礼者ヨハネにまつわる話が描かれているのだ、と納得したことを思い出しながら見た。シャルマーニュ(カール)大帝像もこのごろの作。

 
 左から ヨハネの斬首、サロメの舞い(逆立ち) ヘロデ王  ヨハネの埋葬
 
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右アプシスには ステファンの殉教(石打ちにあった)が描かれている。

   
 ステファンの叙任  ステファンの埋葬


   
 石打ちにあうステファン   意味不明
 ステファンサイクルの下 
左祭室は ペテロとパウロ
   
 ペテロの逆磔刑と パウロの斬首  ペテロとパウロ
男の顔(舌の長い)8世紀のものを12世紀に塗り直した。
左手 壁のキリストの洗礼のストゥッコ彫刻は 
10世紀~11世紀のもの。
   
 順番が違うがステファンサイクルの最上段には 
カロリング朝のステファンの聖職叙任
 キリストの洗礼(ストゥッコ彫刻)
1625分 教会を出て博物館へ(17時からミサが始まるので少し急ぎ気味)
そのⅢに続く