6時半過ぎに家を出て 横浜発7時28分の成田エクスプレス11号に乗る。
9時1分についたが10時の集合にはまだ早い。で朝食をとることにして集合場所北ウイングだが南ウイング行きのエレベーターに 乗る。
出てすぐのフードコート えん でお茶漬けを。鯛茶漬け(900円)
9時40分過ぎに集合場所へ。もう多くの方がいらしていて、すぐにEチケットを渡されてカウンターへ。荷物はかなり制限したので13.5キロ。こんなに少ないのは初めて。モスクワで荷物を抜き取られたという話をきいたので、着るものはよそ行きなし、枚数も制限、靴もパンプスは入れていない。
さっさと持ち物検査を抜ける。例によってデューティフリーショップで化粧品を買って家族に電話をかけたりしてなんとなく時間をつぶす。
ここで少しこれら三カ国のことについて
まずこれらの国々へのツアーの多くがバルト三国ツアーとしているが、私が参加したこの会社では三カ国となっている。『エストニア紀行』梨木香歩 においても、<ここではバルト三国とはいわない>という文章がみられる。理由を確かめてはいないが、ひとくくりではなくそれぞれの国を大事にしたいからではないか、と思っている。
民族・言語的には リトアニアとラトヴィアが、インド・ヨーロッパ語族のバルト語派に属し、エストニアはフィンランドと同じウラル語族のフィン・ウラル語派に属する。
歴史的には リトアニアはポーランドと同君連合を組み、ラトヴィアとエストニアはバルト・ドイツ人の支配下にあった。
宗教的には、リトアニアはポーランドとの同盟関係から カソリックの影響が強く エストニア、ラトヴィアはドイツ人の影響により新教ルーテル派の影響が強い。ついでに書いておくと リトアニアという国は中世から存在していたが、ラトヴィア、エストニアは1918年になってやっと成立した国なのだ。
しかしながらバルト三国という言い方は現在定着している。これは1917年帝政ロシアが崩壊した時 この地域が共産主義から西側を守る砦として重要、つまり防疫線としての役割を担うことへの期待から独立を承認された、という政治的なものからで、西欧諸国にとって三カ国それぞれの国民性などを考えたわけではないようだ。(時期については、第一次大戦後同じようにロシアからの独立を果たした、フィンランド、ポーランドとも相互の地域協力を模索する時代もあったとして、今日的意味でのバルト三国、が地理的・政治的概念として定着したのは1940年のソ連への併合後、という見方をとる本もある)
地形的には三カ国は共通した様相を呈している。どこもほとんど平らで(旅行中もあまりアップダウンがない道を走った)高い山がない。これは第4氷河期に形成された氷河がその後後退した際、標高差のあまりない、細長く伸びる尾根しか残さなかったためで、小山や丘陵、平原がバルト地方の主な特徴で最高地点は高々300m位である。また多くの湖、湿地帯があるのが共通した特徴である。
11時45分搭乗。 乗ったのが最後のほうだったせいか、スチュワートがカートを持ってくれて席に案内。とても親切で上のものいれにいれてくださった。
機は 2-4-2 で窓側。機内はとてもきれい。機材はエアバスだった。
定刻通り ⒓時出発
一回目の食事13時30分頃 日本時間 ⒏時30分二回目の食事
二回目のお食事 下のヌードルが柔らかすぎ
モスクワが近づいてきた。
現地時間⒘時⒑分(日本との時差 5時間) モスクワ シェレメチボ空港 到着 (所要時間10時間10分)
ビックリとてもきれい。聞くとこのターミナルDは2009年にできたばかりだそうだ。 免税店もそろっている。
すぐにミネラルウオーターは必要なので買ったが 500ミリリットルが2ユーロ!! ユーロは使えるがおつりはルーブル、というので2本買った。
現地時間 19時20分発が遅れたが到着は予定通り。 軽食が出る
リーガが近くなった。川が蛇行していて湖が多いのがよく見えた。
現地時間20時10分(所要時間1時間40分)リーガ着(日本との時差6時間)
まだ明るい。しかしバスに乗るころから小雨
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タクシーに目が バルティックタクシー おお、バルトに来た、という実感がわく |
21時 ホテルISRANDE到着
お部屋は縦長でシンプルだが設備はいい。私は一人だが、スーツケースを二つ広げられるスペースはある。夜9時過ぎ、外の明るさに注目
まだ明るく、水などを買うために近くのスーパーにいらした方も。
ホテルは旧市街から川を隔てたところ。橋を渡ったときに旧市街がきれいに見えたので、写真を撮りに外にでてみたが、雨が強くてぼんやりとしか見えないのでやめ。お部屋に戻ってバスタイム。
11時就寝。
2時40分に目がさめたがうとうと。 4時30分 本格的に目がさめ、5時に起きだした。
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