2日目

リーガ滞在

 市内観光


5時起床、 730分 朝食
ハムやチーズばかりではなく、 イワシやニシンまである。

 
中央のお皿にはイワシ 右はニシンの酢漬け
   
 イワシもニシンも一切れずつ取ってみた  お水にレモン は 分かるが 苺までいれてあるのもあった
お部屋に戻る前に ホテル内を散策
ロビー
 
 壁には バイキングシップ それに ケルト的な渦巻き模様 東欧というが北欧でもあるのだと実感
 手前の石は 牛みたいだ

最上階のレストランも覗いてみる。 扉は閉まっていたが、ガラス越しに川が見えその向こうに旧市街が広がって眺望抜群 夕食はフリーなので、ここに決める
 
レストラン

今日は遅い出発なので、その前に旧市街の博物館に行きたかったが、遅いといっても集合が11時では間に合わないし、雨も降っているので、スーツケースの整理をして持ってきた小説を読む。何かこの地域に関係したものをと探してデンマークが舞台のスパイものと、スエーデンミステリーを持ってきた。デンマーク舞台にしたものはブックオフで買ったものなので、帰りに捨てていくつもりで、先に読み始めもう下巻を読んでいる。
11
時集合
バスはエストアニアから来たバスで、運転手のウラジミールさんはエストニア人。今日のガイドのオリガさんは背が高くてきれいな方でロシア系、ウラジミールさんとの会話はロシア語。ラトヴィアの人口の三割はロシア系だそうだ。
言語はラトヴィア語が国語・公用語であるが、リーガなどの都市ではロシア語系住民(ロシア人、ベラルーシ人等)が多く、ロシア語の使用率も高い。数ではあるものの、ラトヴィア語に近いラトガレ語およびウラル語族のヴォニア語も法律によって権利を障されている。母国語話者ぼ割合は 公用語のラトヴィア語58,2%、ロシア語37、5%である。ラトビア人の 71%はロシア語を話すことが出来、ロシア人の52%がラトヴィア語を話すことが出来る。国籍取得の条件に ラトヴィア語習得が義務付けられているために ロシア系住民のラトヴィア語話者数は増加した。
ラトヴィアには工業化が進み化程度も高いということから、旧ソ連時代にロシア人が多くすむようになったが、旧ソ連時代にやってきた人々に対して、ラトヴィア政府は無条件にラトヴィア国籍は与えていない。そのため無国籍のロシア人が多くいるそうだ

ラトヴィアは国の人口が250万人弱 そのうち70万人以上が首都リーガに住んでいる。
リーガは三カ国きっての大都市。(ついでに言うと旧ソ連時代にはモスクワ、レニングラードに次ぐ三番目の大都市であった)

http://www.latvia.travel/en/article/riga

ホテルと旧市街の間にはダウガウ(ダウガヴァ)川が流れている。この川はロシア西部ヴァルダイ丘陵からベラルーシを経てリーガ湾に流れ込む延長1020キロメートルにも及ぶ大河だ。この川を経由してバイキングたちはコンスタンティノープルへ行った。 

まず行ったのが新市街のユーゲントシュティール建築のたち並ぶ通り。(1120分から40
1,900年ごろ流行った建築様式だが、様式だけでなく鉄やガラスを使うといった建築材料や建築技術も新しく短期間に建てることができたそうだ。 
もっとも装飾的要素が強く有名なのが映画監督エイゼンシュタインの父 ミハエル・エイゼンシュタインの作品 青と白を使うのが好きだったそうだ。 

ミツソフ私立学校(エイゼンシュタイン)

 
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アルベルタ通り⒔ 共同住宅(エイゼンシュタイン) 左はアルベルタ通り12番地、Kベークシェンスとラウベの共作

 
 13番地、角をまわったところ
 
 

リェベデンスキー共同住宅(1904年~ エイゼンシュタイン作)たしかバルコニーのある部分にエイゼンシュタインが住んでいた、と言われたように思うが記憶ちがいかもしれない.

 
 
 
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アルベルタ通り
 
 

国立劇場近くで両替。現在はラッツという単位のお金だが、来年1月からユーロ導入が正式に決まったことが、帰ってからの日本の新聞で報じられていた。

それから、バスで中央市場
ここは飛行船ツェッペリンの格納庫だったところ。屋外には 花屋、 果物屋 八百屋

   
   鈴蘭をうっていた
   
   
   
   右の白いのはガラスへの映り込み

オリガさんのお話ではリーマンショックで景気が悪くなって以前ほどの賑わいはないそうだ。(現在失業率⒖パーセント)棟は野菜、肉、魚などに分かれている。私はオイルサーディンの缶詰を買った。ベリー類を買われた方が何人もいらして苺やさくらんぼ、ブルーベリーを分けていただいた。ブルーベリーが大きくて甘いのにびっくりした。

徒歩で旧市街に入る。

   
 道路工事 
表面が平らでない四角いブロック状の石を並べている
 ガレリア・ツェントルス

ガレリア・ツェントルスというモダンなショッピングセンターを抜けたが途中、ここのチョコレートがおいしいとオリガさんが教えてくださった。ライマ(LAIMA)というメーカでスーパーでも買えるそうだ。

細い通りを歩いて城壁を抜けると ヤーヌス(ヨハネ)の中庭 に出る。

   
 一部分だけ残っている城壁  アーチの上には 市の紋章
  
ヤーヌス(ヨハネ)の中庭
聖ヨハネ(ヤーヌス)教会の横には聖ペテロ教会。二つの教会の間にはブレーメンの音楽隊の銅像が建っている。
   
   
   
   
   左上聖ヨハネ教会の 左恥の窓の横に小さく 白い点が見える。
拡大すると 人の顔らしきもの 
(実は現地では 発見できなくて、撮ってきた写真を拡大してみつけた)
昔この奥に修道士の部屋があり 窓から修道士が説教したのだそうだ。
上の音楽隊の写真 、雄鶏の左下の白い点も修道士の顔

リーガという町はダウガヴァ川の河口から十数キロほど入ったところにあるが、この川はロシア奥地から流れこんでいるので、ビザンチンとの交易ルートとして利用され、古くから交易の拠点であった。(前述)12世紀、キリスト教の未開の土地として目をつけられたことから、この地に苦難の歴史が始まる。
 
12
世末まずブレーメン司教は、司祭マインハルトをドイツ商人とともに送り出した。彼はリーガより少し上流のイシュクキレに教会を建てた。彼の死後ブレーメン司教は甥のアルベルトをイシュクキレ司教に任じたが、アルベルトは1200、500人の十字軍を伴って上陸。リーガがドイツ人居留地として適切と判断し1201にリーガに移った。そこで建てたのが前述の聖ヤーニャ(ヨハネ)教会(現存するのは16世紀に再建されたもの)である。そういう歴史がある故かブレーメンとリーガは姉妹都市でこの音楽隊の銅像もたっているというわけである。
苦難の歴史、というのはこの北の果ての地にドイツ人は移住しようとしないし、現地のリーヴ人(リーヴ人の住むラトヴィア海岸地帯をリヴォニアと呼ぶ)少し奥地のラトガレ人(ラトビアの国名はここからきている)などはキリスト教に改宗しようとしない。そこで力でもって改宗させるためにアルベルトは任期が過ぎれば帰ってしまう十字軍にかわって常駐の帯剣騎士団を組織した。この騎士団は教皇によって認められたものであるが、独立的ではなく司教に属した。構成員には騎士だけではなくのならずものもいた、という。現地民は当然反抗する。そうして騎士団はアルベルトの手を離れ勝手に原住民にたいして武力を行使し搾取するようになっていたのだ。

また神聖ローマ皇帝は1207年にアルベルトを聖界諸侯とし辺境伯(マルクグラーフ)に任じた。つまり宗教的指導者の長であるのみならず、裁判権、課税権、軍事権も持つという聖俗両界の長である。当時は皇帝派と教皇派の争う時代であったので、これはこの地への皇帝権力の介入でもあった。


聖ペテロ教会から少し行くと市庁舎前広場

広場に面して少し奥まったところにある、サルヴェ(
salve)が今日の昼食レストラン。天井が アールヌーヴォー風で優雅な感じ

 
 
   
   
   
   

バルト三国は北すぎてブドウはだめ、ビールが美味しい、ときいているのでビールを頼んだ。小で2ラッツ(約400円)
前菜 ブラックビーンズ ベーコンが入っていて美味しい
メイン 豚肉壺煮豚肉、白隠元、ジャガイモを煮たものにチーズで蓋をしてオーヴンで焼いたもの 
デザート 
 
黒パンも美味しかった。


レストランを出ると広場にはローラント像が立ち、ブラックヘッドギルド会館がある(1334年建設)。

ところでリーガ司教だが、布教のために力を借りた騎士団と抗争を繰り返すようになり次第に権力を失なっていき、ドイツ人商人、職人たちはその司教から諸権利を獲得し自治権までも持つようになった12251226)ローラント像やギルド会館はその象徴である。
ローラント像の剣を持つ姿は裁判権を示している。 
広場には、リーガに初めてクリスマスツリーが建てられた場所、の記念プレートがあった。このあたりは19世紀まではリーガの行政、産業の中心地であったそうで、広場ではパレードやダンス、観劇がおこなわれただけでなく処刑も行われたという。計量所もあった。

 

それから聖ペテロ教会に入る。(1209年創建、創建当時のもので残っているのは側廊に面した外壁と教会内の支柱だそうだが、しかとは確認できなかった)

   
   墓石が壁にかけられていた

エレベーターで72mの高さまで登った。眺めはいいが風が強い。まわりを見わたして降りる。

 
 泊まったホテルは橋の支柱の向こうあたり。 川のこちら側が旧市街で 中央の先が黒い塔は大聖堂の塔  
右の緑の塔は聖ヤコブ教会 手前左 屋上と塔が見えているのが 市庁舎
 
 手前中央 塔の先が緑の建物は 聖ヨハネ教会 その向こうが ガレリア・ツェントルス 
聖ヨハネ教会の左 白いテントの屋根が見えるところは ヤーヌスの中庭
 
 奥の ドーム屋根が並んでいるところが 中央市場 左奥の茶色い塔は科学アカデミー(旧ソ連時代の建物)

教会内は奥に進めないようロープを張ってあった。第二次大戦でここも被害を受けたが、その名残らしいものがおかれている。よく見ると市庁舎前広場のローラント像があった。広場に立っているのはこのレプリカ。

 
 

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