15時に食事を終えてきれいな森の中を20分ほど歩いて琥珀博物館へ行った。100ヘクタールもの広大な植物公園である。
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ライラック |
マロニエ |
実は ライラックの花もマロニエの花も ちゃんと見たのは今回の旅行が初めて。ライラックの花房がこれほど大きくしっかりしたものだとは思わなかった。
途中には 蛇から逃げようとする 若い女性の像があった。
女性の名 アグラ(アグレ?聞き間違えているのかもしれない)で 大蛇が彼女に恋をしたのだが、 この大蛇 海の中では美しい若者の姿を していた、 と説明された(メモノートにはそう書いてあるので)
この広大な公園はティシュケヴィチウス伯爵のもので、19世紀初めに建てた別荘が博物館になっている。そばにあるのは たぶんジュマイティア人の礼拝堂。(1413年にキリスト教を受け入れてからは信仰が篤かったという)
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琥珀博物館 |
館内の装飾はあっさりしているが 展示物は素晴らしい。と行っても正直虫入りはあまり好みではない。このとろりとした飴色が何とも言えない。しかし色はさまざま。
氷河時代より以前に亜熱帯性の鬱蒼とした樹林帯があった時代があり、松などが育っていたのだが、その樹液が固まって地上に埋没、化石化した。これが氷河期末期に海底に押し出されたためここバルト海沿岸では琥珀が採取されるのだそうだ。
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全部琥珀製品と説明されたような、、?古代人のアクセサリーあるいはお守り(この地にはB.C3000年頃から人が住んでいた)).. |
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ローマに至る琥珀の道 クラコフ、 ウイーン(wiena) トリエステ、ヴェネチア を通っている |
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このあたりは ケルト人はいなかったはずだが、あるいは ゲルマンっぽいと言えるかもしれない そういう感じのするアクセサリー類
私はこういうのが大好き |
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ネックレスに ぶらさがっているひしゃげた円形の飾りについている模様、ちょっと人が手をひろげたように見える、 こういうデザインを見たのは 初めてで とても興味深かった。 |
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琥珀は軽いので こういう大振りなアクセサリーを作るのに適している。 でもふくよかな西洋人に似合うのだろう。 |
琥珀をいろいろみてからショップで買い物。ペンダントトップやピアスを買った。
それから添乗員さんが「バルト海を少しみましょう」と海の方へ連れて行ってくださった。
途中にルルドの泉をまねた祠があった。
このあたりには ジュマイチャイ人が住んでいて 1413年に ヨーロッパで 最後のキリスト教徒になったが、改宗してからは信仰心がとてもあつかったそうだ。(この祠は誰が 作ったかは知らないが)
バルト三国といってもあまり海辺に行く機会は少ない。なんとかここでバルト海を見たいとおもっていたので嬉しかった。リトアニアという国は三カ国の中で一番面積が広い(6万5300㎢、北海道の約8割)が海に面したところは少なく、海岸線は98㎞しかない。パランガは貴重な海浜リゾートなのだ。
そよ風が気持ちいい。砂は柔らかくサラサラ。遠くに桟橋。伯爵がお客を迎えるために作ったのだそうだ。
17時過ぎにバスに乗る 道中 海を見乍ら走るのかと思ったがそうではなく単調な景色、湿地帯で川が多かった。
17時30分過ぎにクライペダのホテル、アンバートン・クライペダに着いた。
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アンバートンホテル泊まったお部屋は 右に伸びている部分の3階くらい
あとで行ったタワーレストランは 左の塔だったらしい。 |
私のお部屋 |
夕食は19時30分から、というので部屋で一休みしてから町を少し歩いてみることにした。(このツアーでは市内観光の予定はない)ホテルは旧市街とはダニェ川を隔てているが、すぐそこである。
目指すは劇場広場
ホテルを出て少し行ったところで 子供連れの男性に道を聞いたら大変親切に教えてくださった。ホテルを出て10分もかからず広場に着いた。
ここの劇場のバルコニーで ヒトラーが 1939年にメーメル(クライペダのドイツ名)復活の宣言をした。
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噴水の中央に立っているのは「タラウのアンネちゃん」 下には この民謡をかいた 詩人 サイモン・ダッハ |
クライペダという町について
原住民たるリトアニア人がこのあたりに住み着いたのは(ヴォルガ中流域からやってきて)紀元前2000年前といわれているが、詳しくはわからない。8世紀にはクールシ人が住んでいた。(クールシ人は ヴァルト語族ではなくエストニア人のようにフィン・ウゴル族とも言われている)ヴァイキングもやってきたがヨーロッパ商人もやってきていた。ドイツ人が住むようになったのは1252年にドイツ騎士団がやってきてからである。彼らはここをメーメルと名付けた。ドイツ騎士団は 1410年のタンネンブルグの戦い(先にあげたヴィタウタス大公がポーランド側で戦った)で敗れたが メーメルブルグはドイツ領にとどまったままであった。そのご プロイセン領。 第一次大戦で ドイツが負けてリトアニアに帰属することになったが、いろいろあったすえ、 まだ ドイツ人が多かったので地方議会選挙で ドイツ人の政党が圧倒的多数を占め1939年にリトアニアは クライペダをドイツに引き渡したのだ。
しかし40年にはソ連軍が進攻してきてドイツ人たちは逃げ出した(この時ドイツ軍はすべての工業施設と住居の三分の二を壊して去ったそうだ)。戦後ソ連によるリトアニア併合のため残っていたドイツ人は殺されるかシベリア送りになったという。
劇場前には 乙女の像が建っている。タラウの アンネちゃん、 というそうだ。一瞬アンネ・フランクを思い浮かべたが違っていた。
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あの水色ドレスの少女に 見覚えが、 道を教えてくださったのが横にいる若い男性 |
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劇場を背にして撮った広場。 あの親子もおうちに帰るところのようだ。
ドイツ的な木組みの家が多い町と読んだが、 見たのは の奥の茶色い家だけだった。 |
町には博物館もいくつかあるようだが、もう開館時間は過ぎているし、夕食の時間もせまっているので、別な道を通って(左の 黄色と白の建物の間)ゆっくり歩いてホテルに戻った。途中はどっしりした石造りの建物。
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手前の大きな木の向こう、横切るような白い線のところが ダニェ川 奥の木立が対岸ということになる。 |
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橋を渡ったところ 愛の橋モニュメント |
船のオブジェ(ホテルのすぐ横の広場) |
隣の建物の展望レストランでお食事。夕日がまぶしくてブラインドをおろすほど。
デザートまで おわったところでバースデーケーキが運ばれてきた。実は 今日は私の誕生日。旅行前に誕生日がかかるな、とは気付いていたがすっかり忘れていた。憶えていればちゃんと着替えをしてきたのに。ケーキの真ん中には ローソクではなく 花火がシュルシュル。折角なのでおなかはいっぱいだけれどがんばって頂きました。
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20時48分 手前は クルシュ海 砂州の向こうがバルト海 |
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20時50分 まだこんなに明るい |
21時お部屋に戻って 22時40分ごろ寝た
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