5日目

6月1日

 カウナス~ヴィリニュス



晴れ 
4時
20分目が覚めて5時に本格的に起きる 
7時朝食
   
   ここにも 鰯、鰊がありました

荷物をだして 
7時50分~⒏時⒛分まで 付近を散歩。
最初は少し肌寒かったが このあと暖かくなってきた。
ホテルがあるのは新市街。近くのロシア正教の聖ミカエル教会(1891~93年建立)などを見る。
 
 ライスヴェス通りの奥には 聖ミカエル教会
 
   
 聖ミカエル教会  手芸品店
ラシヴェス通り(ソ連時代にはスターリン通りと呼ばれた)が一番の大通り、 
下は聖ミカエル教会を背にして撮った写真。 右の建物はお化粧直しされているが 左角は所々壁が剥げ落ちたままの状態。
下右写真は聖ミカエル教会に向って左へ入ったところ。 子供の遊び場がある、ということは 周囲の建物は 一般住居?
   
 ライスヴェス通り 中央には菩提樹の並木道
8時10分
 
 
ホテルに戻る途中、あの階段をのぼってみたいとは思ったが、人けがないのでやめにした

9時 バスで出発

1919年、それまでリトアニアの首都であったヴィリニュスがロシアに占領されると、リトアニア政府はこの地に引っ越してきて、1920年ヴィリニュスがポーランドに占有されると、カウナスは1940年まで臨時に首都となった(ただし憲法上はあくまでヴィリニュスが首都とされた。)それから第二次大戦までの間、カウナスはリトアニア最大の都市として工業的にも発展した。大戦が始まるとリトアニアを含むバルト三国はポーランド東部と共にソ連に占領されたが、間もなくドイツ軍が侵攻し街は破壊された。戦後はソ連の一部となり、再び工業が盛んになり、リトアニアの工業生産の四分の一を担うまでになった

   
 丘の上に キリスト復活教会
1934年に着工したが、ナチスの倉庫、ソ連のラジオ工場
に 転用され、2004年に完成
 道路脇の家の前に立っていた。 意味不明
男が肩に近いところで子供を抱いている、となると 
聖クリストファーを思い出すが、普通聖クリストファーは立っている
 この地の民間信仰によるものなのだろうか
   
 右上の木像のそばの古い家  少し丘へ上ったところ(説明があったのですが、、、)

まず向かったのが 杉原記念館 上記の通りリトアニアの首都がカウナスにあった時期、ここに日本領事館がおかれていた。
「シンドラーのリスト」という映画が20年くらい前に上映されたときに、日本のシンドラーということで有名になり、恐らく殆んどの日本人にとってリトアニアで知っている地名と言えばこのカウナスではないか、と思われるほど日本人にはポピュラーである。我々のほかにも日本人ツアーがきていた。
このあたりはグリーンヒルと呼ばれる少し小高いところで、カウナスでは高級住宅地。しかし領事館といっても少し大きめの住宅といった建物である。

 
 
 
 

まず15分くらい(?)紹介のヴィデオをみて執務室などを見学。
シベリア経由でしか、アメリカなどに逃げることができなかったユダヤ人たちのために,国からの許可も得ないまま(失職覚悟で)(日本政府はドイツとの関係を重視してドイツの意に背くようなことはしたくなかった)ヴィザを発給し続けた杉原千畝氏の話に改めて心打たれる思いで、写真などを見て回った。しばらく前に読んだ『スギハラ・ダラー』手島龍一著 を思い出したりしながら。

 
 執務室
 
 
 
 

氏は戦後 1947年退職依頼勧告を受け 外務省を退職。不遇の時代を送られたそうだ。

余談ですが、大学でロシア文学を学ばれた年上の友人からお聞きした話。
彼女は50年代の終わりごろ、お茶の水のニコライ堂に貼られていた掲示をご覧になってロシア語の個人指導を受けられたことがあるそうですが、なんとそのときの先生が杉原氏でいらしたそうです。 氏の経歴を見ると当時職を転々とされていたようです。外務省をやめさせられなければNHKの食堂の片隅で語学指導、ということもなかったでしょうに。
 
 ミュージカル劇場

バスで ライスヴェス通りへ 

ヴィタウタス大公像、通りを隔ててお向かいには ミュージカル劇場

1385年ヨガイラ大公がカトリックを受け入れ ポーランド王女と結婚してリトアニアとポーランドは同君連合になった。

しかしリトアニア人はポーランドの一地方とみなされることに不満を抱いていた、
こういう背景の中で
ヴィタウタスは従弟であるヨガイラ王と親書を交わし大公位を得て、リトアニアの支配者となった。

このヴィタウタス大公の時代に(14世紀末)リトアニアはバルト海から黒海に至る最大版図を占めることになる。

大公像の足元には支配下においた ロシア、ポーランド、タタール人兵士と
折れた剣を持つドイツ騎士団の騎士像がおかれている。



   
   
   
   ドイツ騎士団騎士
  
  

下写真は 市庁舎 屋上の605という数字は カウナス建都605年をあらわしている。1408年ヴィタウタス大公により市の権利が付与された。(マグデブルグ法に基づく)この数字、ちゃんと毎年書き変えているそうです。

   
 市庁舎  

19歳の少年がソ連の支配に抵抗して焼身自殺をした記念の場所やオリンピックに優勝して記念に植えられた菩提樹なども見た。(写真略)リトアニアでは 木を植えて顕彰することがよくあるそうだ。

   
1972年に ソ連支配に抵抗して 焼身自殺を 遂げた少年がいた  

バスでネムナス川(970㎞)の対岸の丘の上に行き、展望台から旧市街を見る
ペルクーナス像が立っていた。ネリス川との合流点も見えた。 

 
ネムナス川の向こうに(中央、茶色) ヴィタウタス大公教会
 その奥 三本の白い塔のうち 真ん中が旧市庁舎の塔
 両脇の二本は イエズス会教会
 その左の茶色い円錐形の塔は カウナス城
 
 ネムナス川(手前)とネリス川の合流点
 
この面白い建物は 工芸美術学校とか 言っていたような、、、 
 
 ペルクーナス像
ペルクーナスは 雷神である。 雷神というと北欧神話のトールを思い出す。
原翔氏は 『バルト三国 歴史紀行リトアニア編』で、<ヴァイキングがもたらしたのかもしれない。・・・中略 ・・・ リトアニアでのペルクーナスを信仰する人の組織は大変に厳格で、神官階級が力をもち、血の捧げ物の儀式などで民衆を厳しく統率した。これがリトアニア人が対外的な力をもてた所以だといわれている>と述べている。ドイツ騎士団に屈服しなかったり、便宜上キリスト教を受け入れても その大公が殺されるとキリスト教が捨てられたりしたのもこういう理由だな、 と思った。

そこから 旧市街へ 
まずカウナス城
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世紀にドイツ騎士団の侵略に対して造られたが1363年に騎士団に占領され、破壊された。それを15世紀ヴィタウタス大公の時代に再建

1410年騎士団との戦いに勝ってからは居住用として使われた。
つまり バルト三国の他の二国、ラトヴィア、エストニアのお城は騎士団の城だが、ここは対騎士団の城なのだ。リトアニアはこのネリス川を境に騎士団を侵入させなかったのだ。
中には入らなかった。優雅な宮殿というわけでもなさそう。17世紀のロシアとの戦いで破壊され、塔も四つあったうち一つだけ再建されている。

 
 カウナス城
 
 
 
向こうにネリス川

徒歩で 聖ペテロ&パウロ大聖堂へ 15世紀

   
 大聖堂(奥)へと続く道  大聖堂入口
これは市庁舎側から撮った写真
   
   拡大すると 以前の窓のアーチの 痕跡が見える 

外側のシンプルさに反して中は豪華なバロック。ヨハネ・パウロ二世もここにいらしたそうだ。

   
   ヨハネ・パウロ二世
   
 
 
   

旧市庁舎 現在は結婚登記所になっている。
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世紀のバロック様式で 白鳥にたとえられる 優雅な建物。

下部は修復中。 どういう意味があるのか 自転車が宙吊り

 
 

土曜日のせいかウエディングドレス姿が多かった(中にはスカートふっくらの花嫁さんも)建物の説明を聞くよりも、みんな花嫁さんの写真を撮るのに夢中。
下の方に少し見える入口から新郎新婦が入っていき登記をすませて左出口からでてきたところをお友達が待ち受ける、という寸法のようだ。 
そのあとぞろぞろとお向いのレストランに入っていく一行もみかけた。

 
 ブーケを持った女の子たちも可愛い
  
 お友達? も思い思いのドレスで
 

この広場は 中世には市が立った ところで、まわりの建物も1617世紀の商館が建ち並んでいたというが(カウナスは15世紀半ばにはハンザ同盟の代表部がおかれ商業活動の中心地として栄えた)、花嫁さんを見るのに夢中でよく見なかった。もっとも人も多くて建物全景を撮ることも出来なかったのだが。

(1,2分川に向かって歩くと)ペルクーナスの家 と呼ばれる15世紀ゴシックの建物。この場所は 昔 ペルクーナスといわれる雷神を祀る神殿があったところ。

 
ペルクーナスの家 奥は イエズス会教会
 
ペルクーナスの家の斜め前は ヴィタウタス大公教会、その横で見かけたお嫁さん。 このドレスも素敵
   
ベルクーナスの家の隣の空き地に面白いものが建っていた  (拡大)
小鳥の巣 をアレンジした彫刻作品?

それから10分近く歩いて昼食レストランへ、 穴倉風で雰囲気が良かった。 カウナスにはナポレオンが立ち寄ったとかで、壁にその時の様子がかれていた。(このレストランに来た、というわけではない)

 
 1812年に ナポレオンは カウナスを通過
   
 
   
   
   
甲冑や大燭台も穴倉にあっている  

カウナスという町にはソ連の支配下にあったころの建物がゴーストのように残っている。四角い感じなので、それと判断できる。旧市街はともかく新市街はまだお化粧直しができていない。壁がはがれ落ちたままのところが多く薄汚れた感じがした。町の人口のうち8割はリトアニア人。
なお リトアニア全体では 
リトアニア人84%、ポーランド人6.1%、ロシア人4.9%他に ベラルーシ人、ユダヤ人、カラメイ人といった構成である。

そのⅡに 続く