行きたかったのは 詩人ミツケヴィッチが大学時代下宿していた場所。彼はポーランドの詩人として知られているが、ベラルーシ生まれでヴィリニュス大学で学んだ。今回の旅行の動機の二つのうち一つがミツケヴィッチ原作の映画『パン・タデウシュ物語』を10年ぐらい前にみたことによるものであるから、その詩人ゆかりの場所には行ってみたかったのだ。
暑い中 大聖堂広場を抜けてピリェス通りを少し歩いて左に折れてベルナルディン通りへ。
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ピリエス通り~ベルナルディン通りへ入る |
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現地で買ったガイドブックによれば ベルナルディン通りはもっとも趣のある通りの一つとあるが、
落書き 壁の剥落などがあり、とてもそうは思えない。足を踏み入れる観光客もいなかった
奥のほう 赤い旗がたっているところは シェークスピアホテル |
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途中わざと 漆喰を塗らないで 元の壁をみせている家もあった
観光客も時にはくるのだろうか |
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ミツケヴィッチの下宿していた家。 シェークスピアホテルの斜め前 |
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番地表示を見ながらゆっくり歩く。通りが終わりになるころ 11番地をみつけた。ちゃんとプレートも付いていた。一階には記念館があるらしいが、よくわからないのでカメラに収めた後は突き当りの聖アンナ(オノス)教会へ。この教会横の広場には ミツケヴィチかと思われる銅像があったが写真はビデオで撮ったので消えてしまった!!
聖アンナ教会は16世紀ゴシックのゴテゴテで好みではないが、かのナポレオンが「フランスに持って帰りたい」と言った教会なので、一応入ってみた。天井が素敵だった。
フランボワイアン様式の傑作といわれ、ヨガイラ朝の建築家ベネディクト・レイトによって造られた。特徴は ピラスター(付け柱)と半円形、 先頭形、四角の三種類のアーチ。 それに判別は できないが33種類の異なった煉瓦が つかわれているそうだ。20世紀に改装されている。鐘楼は ネオ・ゴシック(1873年)
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すっきりした内装が気持ちいい。 |
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左が 聖アンナ それと 聖母子
上の写真の拡大で ぼやけているが、オクラート(銀の覆い)をかけてある。 夜明けの門のマリア像ももそうだが ロシア正教の影響だろうか |
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ついでお隣(右奥)の聖ベルナルディン教会へ。やはり16世紀後半に建てられたものだが、うっすらフレスコ画が残っていた。ソ連時代には閉鎖され美術学校に譲りわたされたいたが、1994年聖フランシスコ信者に渡された。
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聖ベルナルディン教会 上のキリスト磔刑のフレスコ画は1846年カヌティー・ルセッキ画 |
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身廊 中央の祭壇の上部にあるものと同じ 矢が刺さったような一見紋章風な飾りが 両脇にずらりと並んでいる。
ガイドブックに、<身廊に11もある祭壇は18世紀半ばにつくられたものである> とあります。祭壇らしい。 受難を表すのでしょうか |
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プットーのような こどもに矢が刺さっているように見えるのだが、どういう意味なのでしょうか。聖アンナ教会の祭壇の上にもあるので、このあたりでは こういう 装飾をするのかもしれない。 |
フレスコ画 うっすら残っていたのを フォトショップで かなり 鮮明にはしたが、 よくわからないところはある。
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上 磔刑の準備 イエスでしょうか、 左は 聖母マリアを含む一団のように見える。
下T型十字架の右,司教冠を手にしているのは 枢機卿?十字架を支えているのは フランシスコ会士のようだが 光輪がある。その左は船に見える。
その横はお棺に入って半身を起こしている?人
兎も角 説明がないので あれこれ推測をめぐらすばかり
ガイドブックには <聖書と聖人伝を テーマにした 多色ゴシック様式
16世紀初頭に描かれた世界的にみても類のない作品である> と書いてあるだけ |
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これはアッシジの 聖フランチェスコの事績ということは 分かる |
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上は 教会を支えるフランチェスコ(インノケンティウス三世がみた夢)
下は 聖痕を受けるところ |
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スタニスロヴァス・ラドヴィラの 墓碑
1618~23年 ダンツヒの工房で製作 |
洗礼盤
八本脚で八角形のようあが、
装飾や石の使い方など初めて見るタイプ
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そこを出たところには 聖ミカエル教会がある。ここは教会遺産博物館になっているので是非入りたかったが日曜日なのでお休みだった。
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聖ミカエル教会 |
ヴィリニュス大学中庭
塔は 聖ヨハネ教会 |
近くのアンバーミュージアム・ギャラリーへ。何を買おうか迷っていると、ツアーの一団が通りかかった。 聖ペテロ・パウロ教会の観光をおえて希望者が添乗員さんの案内で市内観光中。皆さんは聖体行列をご覧になったそうだ。迷いに迷ってなんとか一つペンダントトップを買って、ヴィリニュス大学の方向に歩きだす。途中スーベニアショップをみつけ木彫りの小さな天使人形を買った。
大学の構内には入口までしかはいれなかった。聖ヨハネ教会の横をユダヤ人街に向かって歩く。
ヴィリニュスは 北のエルサレム とよばれているほどユダヤ人が多く住んでいた町である。前にも書いたように14世紀にすでにユダヤ人の手工業者や商人が受け入れられていたが、1569年にポーランドとリトアニアの間で結ばれたルブリン連合後、リトアニアは東中欧のユダヤ人のもっとも重要な入植地となり、その中心がここヴィリニュスなのだ。ヴィリニュスに最初のシナゴーグが造られたのは1573年。ヴィリニュスは人口の三分の一をユダヤ人が占めるまでになった。
ヨノ通りの彫刻 ユダヤ人か?
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下の大学薬局のところにある紋章拡大 |
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下建物の薬局マーク |
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大学薬局のようです |
このあたりから ユダヤ人が住んでいた地域になる。とても広い地域である。(通常 ユダヤ人街というと 細い一本道の両側に上へ上へと延びる住宅がびっしりつまっている、という状態だが、ここでは、細長い小路といったものではなさそう)
ドミニコ通り ヴィリニュスでもっとも古い通りの一つ、立派な建物が並んでいて、大学教授や貴族、有名人が多く住んでいた。
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ドミニコ通り |
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聖マルティンの浮彫 |
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シュラパーロス家が リトアニア語の書店を営んだ
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11番地ポツイェユス家邸宅 17世紀にはあった。1748年の大火災のあと増改築され 20世紀初頭にはシュラパーロス家が書店を営んだ。初期バロックの建物。
横道へいってスティクリュー通り。
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スティクリュー通り |
しばらく行くとスティクレイホテル。五つ星高級ホテル(下写真左)
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ガオノ通り ユダヤ人街の暗いイメージはない |
このガオノ街11番地もガイドブックには見るべき建物とある。このガオノ通りはさきほどのドミニコ通りとぶつかるが、ユダヤ人街でこのあたりにゲットーの地図がある、ということで 探したがみつけられなかった。今グーグルマップのストリートヴューで探すとこのホテルの一軒先の家の壁にプレートがうめこまれていた。
スティクリュー通りをそのまま進むと市庁舎広場。ここで集中豪雨のような俄雨。ちょうどお目当てのリネンショップがあったのでそこへ駆け込もうとしたらお店は⒘時までで閉まっていた。そこで店先で5分くらい雨宿り。小降りになったところでピリュス通りへ。 スーベニアショップをのぞきながら歩いているとツアーの一行にであった。市内観光をして解散中で希望者は大聖堂前で18時半に集合してレストランに行くのだそうだ。それで私も大聖堂へ、数分おくれたのでもう何人か向こうの方を歩いている。大急ぎでおっかけて仲間に入れていただいた。ゲディミナス通りを10分くらい歩いた。
途中 国立ドラマ劇場の横を通った。
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国立ドラマ劇場 |
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ゲディミナス大通り、振り返ると 大聖堂と 鐘塔 |
レストラン、 添乗員さんは ネリンガというちょっと高級感のあるところを考えていらしたようだが、中にはいってみるとテーブルが三人くらいずつだった(隣に作ってもらえそうだったが)また みな、もう少しカジュアルなところがいい、とお隣のピザ屋さんに入った。
ビールで乾杯してピザとサラダをいくつもとってシェアしていただいた(添乗員さんを含めて8人)オープンエアのカフェで おしゃべりしながら。 抜群に面白かったのが、ある方のトルコ風呂体験記。 書くのをはばかるような状態でごしごしやられて大変だった、とかその話術の巧みさ。本当に楽しいお食事だった。
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写真撮りわすれ、 最後になって気が付いた |
20時33分 大聖堂とは反対側 |
お食事代は一人30リタス(1200円 ビール、コーヒー代込)安い!帰りはタクシー2台に分乗して、ホテルへ。
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乗る前にもう一枚、ゲディミナス通りは 新市街に相当するので、 先に見てきた通りとは建物が違って 重厚 |
私たちは添乗員さんと一緒だったが、「どうしますか、まっすぐホテルがいいですか?」 それでホテルの先の大型スーパーによってもらうことにした。この時のタクシー代が(添乗員さんが支払って下さった)8リタス。さっき私が一人で乗ったときはあきらかにぼられた、と思った(日本円にしてもたいした金額ではないのだけれど)
スーパーでチョコとジュースを買ってホテルへ
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