11時10分バスに乗ってクレッサーレに戻る。
11時40分頃 クレッサーレ城
このお城は トラカイ城、トライダ城と並んでよく保存された中世の城だそうだ。
クレッサーレとは 鷲の意味
サーレマー島がキリスト教化されたのは1227年である。司教の居所であったこの場所が文書に現れるのは1341年。
本体部分が三階建てで北の塔が七階建て、中庭のある正方形の修道院として完成したのが1380年。中庭には (下写真)観光客が顔をのぞかせて 写真を撮るための、顔の部分をくりぬいた看板みたいなものがあった。 修道女と騎士の姿。
16世紀前半、独身を誓ったはずの騎士が地元の女性と恋におち、女性は 修道院にやられ、騎士は生きたまま、壁のあいだの狭い部屋に閉じ込められた、という事件に由来している。 右下がその実際の部屋で、ミイラ化した遺体がみつかったそうだ。
1559 年にはデンマークの支配下に17世紀半ばのスェーデンとの戦争の結果スェーデン領に、その後ロシア領に、とエストニア本土と同じような歴史をたどっている。しかし大きな戦争には巻き込まれなかったので昔の面影が残っている(もちろん修復されている)
造られた時代だけに様式はゴシックである。
台所、ビール醸造所、暖房設備、トイレなどをみて(これらはどこも薄暗くて撮った写真にはっきりしたものがないので割愛)礼拝堂へ。
紋章がやたらと飾られている部屋もあった。このお城のものだけでなく近隣の教会から持ってきて展示されているものもある。
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右の部屋の入口の上の絵
誰を描いているのか 分からない
向かって左の人は 神の子羊を 右の人は聖杯らしきものを持っているが、
もしかしたら 鍵かもしれない、そうするとペテロであることになり、
そうなると 左は パウロ? |
現在は ホールだが もとは 教会だったと 説明されたような、
もうあやふや |
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上右写真奥の壁に少しみえている祭壇レリーフ
16世紀初めにリューベックのマイスターによって制作されたもの、
一時 昨日行ったカルマ教会に置かれていたこともある |
紋章が飾られている部屋もあった |
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通路 ゴシックのアーチ列が美しい |
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修道士の寝室。この部屋に限らず 壁が非常に厚い |
お手洗い |
塔へ上ろう、ということになったがあいにく閉まっていたので 外に出た。
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お城の敷地にはイヴェント会場 |
お濠に掛けられた橋からお城を振り返る |
12時40分ごろバス のどかな景色を眺めながら
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茶色の牛(ここはまだ サーレマー島) |
橋(3キロの土手道)を渡ってムフ島へ。
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あとで名前を知ることになるのだが、この木は 杜松 |
人口20人余りというコグヴァ村へ
農家風レストランで昼食
お水のかわりにでてきたのが ラウベリーウオーター
スープには お魚、ジャガイモが入っていて 石狩鍋風
メイン 猪肉の煮込み 少し固かったがおいしかった
デザート カマ 穀類を粉にしたのを練ったものだが、誰となく 麦粉がし、と言い始めた。まさにそうだ。底のほうにラズベリージャム
ビール 小2ユーロ
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ラズベリー0ウオーター |
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バターナイフは使いこまれたジュニパー製
バターの上に 赤い胡椒 |
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猪肉の煮込み |
カマ |
蜂蜜
プラスチック容器なので買いたかった |
食事が終わって近くの野外博物館へ 14時30分〜15時
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昼食レストラン |
野外博物館へ |
エストニアの作家 ヨハン・スモール(1922年生まれ)彼の生家は19世紀からの農家。
民具、あまり興味はない。ところが帰ってからシランパアというフィンランドの作家の書いた『若く逝きしもの』という小説を読んで、まさにこういう農家が舞台なのだ、とあらためて写真を眺めている。スペースの関係で少ししか載せられないが。
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手前に井戸、長い竿で汲み上げる |
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手前が 橇 奥が馬車 |
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サウナ小屋 左には羊小屋と書かれている |
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一渡りみたところで、「ちょっと港へ行きましょう。10分ばかり歩きます」と森の中の道を行く。
途中、これが杜松(ジュヌパー)の木です。 と教えてくださったのを見るとバスの中でも よくみかけたクリスマスツリー型の木だった。 しかしこれは地面の近くから枝が張っている。
下写真、スモールの像。こういう道をたどって漁港へ行った。
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杜松(ジュニパー) |
スモールの像。
手前両側のクリスマスツリー型の木は ジュニパー |
今回の旅行に持ってきた『赤く微笑む春』というスェーデンの小説にジェニパーの繁み、というのがよく出てくるので気になっていた木である。確認できて嬉しかった。
しばらく行くと開けて海 向こうはサーレマー島。
海辺に葦の繁み 向こうに杜松の繁み こういう景色がみたかったのだ。
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ジュニパーの繁みに海辺の葦 、誰もいない海 忘れられない景色です |
旅を振り返って一番印象的だった場所はどこかと考えてみると 結局ここだったのではないか、と思うほど気にいってしまった。別に何でもない場所だけれど、その何でもなさがいい。舟の博物館を作ると準備をしていた。観光客をいかに誘致するか、彼らなりに真剣に考えているのだろうが、おかしなものは造らない方がいいのに、と思った。
この景色に付け加えるものは何もなくていい。
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右の青い屋根の建物の中で 船をつくっていた |
レストランのところまで戻ってバスでフェリーの着くクイヴァストゥ港へ
16時30分のフェリーには少し時間があるので小さいお店をのぞく。風が強い。
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クイヴァストゥ港 |
フェリー内部 |
17時 本土のヴィルツ港についてタリンに向けて走り出す。配られた地図をみて現在地確認。川はカサリ川、湿地もある。このあたりはマツァル国立公園の西端らしい。
地図を見ていてラーネマー地方、そしてリスティという町の名にピンとくるものがあった。
『粛清』という小説を来る前に読んだが、そこにこの地名が出てくるのだ。
リスティのすぐ南にコルヴェレという地名もある。小説の中で ザラという娘はこのあたりの村はずれの家を訪ねる、ここが主な舞台だ。第二次大戦後エストニアが ソ連邦エストニア共和国 となった時 反ソ活動の罪を問われることをおそれて人々が逃げ込んだ森も近くにあるはず。バスの外の景色から目が離せなくなった。ただ残念なことには 森が道路にせまっているところでは、景色が流れてしまって写真が撮れなかった。しかし 藪がからんで人がひそめそうな森も間近に見た。所々、小説に出てくるような一軒家の小さな農家もあった。
小説の設定は1992年、独立間もない頃でもう20年前。様子は今とは違っているのだろう。(地方ではそれほど変化はないかもしれないが)
19時頃 タリン着 ホテルは新市街の ラディソン パーク・イン・セントラル
19時15分頃 お部屋に入れた。広くてモダンで気持ちがいい。コンセントが10個もあった。ガウンとスリッパもベッドの上に置かれている。最近のホテルは節約して シャンプーやソープは大型ボトルが壁に付けられていて それを押すようにして出すのが多い。これは固くて押しにくい。不便だ。ここではべつに石鹸も備えられていた。今回の旅行中一番アメニティなども揃っている。昔ノルウエーで止まったラディソン・サスを思い出した。
19時45分 ホテルのレストランで夕食。これが最後の晩餐になる(明日の夜は食事がついていない)ので旅行会社から飲み物サービス。私は赤ワインにした。
21時15分ごろお部屋にもどって、入浴、洗濯
20時40分ごろ寝た。
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