10日目


6月6日


タリン市内観光




晴 今日の予定は午前中市内観光、昼食後はフリータイムで 希望者は添乗員さんと市内を引き続き観光する、というもの。
7時 朝食
   
   
   
   

出発まで周囲を散歩。旧市街が近いらしいので行ってみようとしたが、方向音痴なので 途中で心配になってもどってしまった。このあたりは新しいビルがたくさん建っている。建築家たちのコンクールでもみているようだ。こういうのをみていると、三カ国の中でエストニアが一番経済的に豊かであることが実感されてくる。

   
   右は 建築博物館
左奥に旧市街の塔が見える
   
 古い建物も 残っている  
   
   これは バスで 歌の原に向かう途中

9 バスでまず郊外の 歌の原 に行く。1950年代に造られたもので、現在は5年に一度の 歌と踊りの祭典が 開かれることで 知られている。

エストニアの歴史に ついてあちこちで 書いているのでごちゃごちゃしていますが、この民族の祭典に関係することとして少し書いておきます

ドイツ騎士団は リトアニアのところで書いたように タンネンバウムの戦いで負けて力が衰えたところへ、さらに宗教改革の影響でカソリックではなく新教を受け入れることになったので、存続意義がなくなってしまった。 最後の騎士団長はポーランドと交渉、クールランドを手にいれクールランド大公になったのです。
しかし、現在のラトヴィア、エストニアではドイツ人支配が固定。都市ではドイツ商人が都市貴族として政治経済を支配し、地方では領主となって現地民を支配して、現地民は農奴のような状態に置かれていた(実際に売買もされた)。
リヴォニア戦争(1558年) 大北方戦争(1700年から)により この地域の支配者は スエーデン、ロシアと変わったが、両国とも直接支配はバルト・ドイツ人に委ねていたのです。
地方ではエストニア人、ラトヴィア人(もっと細かく分かれていたが次第にこうまとまってきた)は農奴状態に置かれてはいたが、民族としての意識はないまでもドイツ人ではない農民としての意識はあり民族的文化が守られてはいた。

ところで新教(ルーテル派)に対してカソリックも巻き返し攻勢にでて(イエズス会)どちらも信者を確保するために現地語で聖書を表した。
1715年に新約聖書、1739年に旧約聖書が現地語に翻訳され、これがエストニア語標準語の元となった。そうして現地語で説教をした。そのため農村部でとても識字率が高い、という背景がまずあった。
これは 1897年(このころはロシア帝国に組込まれていた)であるが、ロシア帝国全体の識字率27%に対し、エストリャント県95%、リフリャント県(少し範囲が違うが現ラトヴィア)93%、クールリャント県(元ラトヴィア)85%。驚いては失礼かもしれないが、すごい数字だ。

また農奴状態に心を痛めた皇帝もいた。啓蒙専制君エカチェリーナ二世である。彼女は出来なかったが、その孫アレキサンドル一世はエストラント(1816年)リヴラント(1819年)で農奴解放を実施した。
しかし、解放されても農民の生活がかわることがなく土地を持たないまま都市へ流れていき、これが結果として産業の担い手となりこれらの国の経済を発展させることになった。

こういう中でルター派の牧師などが 先頭にたって地域での教育活動を行い、読み書きだけでなく、教会などでの合唱のための音楽教育もした。 また民族主義の流れのなかでフォークロワの収集もされた。一方この民族主義の芽生えに対してロシアは、バルト・ドイツ人の台頭を抑えるために、民族主義を抑圧することはなかったという。こういうことが背景となって 全国的な合唱祭がおこなわれるようになったのだ。

始めて大合唱祭が行われたのは1869年タルトゥの町においてであった。第4回目からはタリンに移ったそうだ。その後も5年に一回 ソヴィエト連邦下でも祭典は続けられ、第二次独立の直前1988この地で開かれた祭典では30万人(民族の約3分の1)がここに集った。翌年にはタリン、リガ、ヴィリニュスをつなぐ200万人の人々が手をつなぎ、600キロメートル以上の 人間の鎖 を作ったことは記憶の底にある。これら 一連の事柄が歌による革と呼ばれる1991年独立につながるのだ。少し胸が熱くなる。

会場は小高い丘の上。はるか向こうには タリン港や旧市街をのぞむことができる。オリンピックの聖火台のような聖火台もある。

 
 

像はグスタフ・エルネサクス という作曲家で 「わが祖国、わが愛」という第二の国家ともいうべき歌の作曲者。このステ−ジには、1500人から3000人の人が 立つことが出来、観客は普段は3万人くらいだそうだ。この歌と踊りの祭典以外にも、マイケル・ジャクソン、 マドンナなどのコンサート、 ロックフェスティバル、ビール祭りの会場などとしても使われるそうだ。コンサートなどではベンチが設営されるそうで、 まわりには菩提樹が植えられているがこれは音響効果がいいからだそうだ。

   
 遠くにかすむ 旧市街  エルネサクス像
  
  お土産物屋さん

記念石碑の周りは100周年を記念して樫の木が100本植えられている。エストニアの紋章は 三匹のライオンと樫の木。

   
   

バスで市内へ 途中カドリオルク宮殿の前を通ったが、何かがあるとかで、車を止めて写真を撮ることはダメだった。旧市街の外側をバスでぐるりとまわりながらまず山の手のトームペアへ。
タリンの町はこの高さ約24m(海抜約47m)の(山の手)トームペアと下町に分かれていてトームペアにはお城や大聖堂がある。
また歴史の話になってしまうが、 
8日目に書いたように、ツェースィスに騎士団の城ができ、そのあたりのキリスト教化されたラトヴィア人(もう少し細かくいうと、リーヴ人、レット人)ともども北上し始める。レット人と民族の違うエストニア人は仲が悪かったので、ものすごい殺戮だったようだ。騎士団側はツエースィスの北東部ロシアに近い方をまず手にいれた。その後北西部(8日目にエストニアに入るためにバスで通ったあたり)サカラでは 1217年この地域の族長レムピトの死により騎士団の勝利となったが、タリンのあるエストニア北部を攻めあぐねていた。タリンに住んだのは エストニア人のレヴァラ族である。タリンのことをドイツ語ではレヴァルというのだが それはここから来ている。
トームペアの案内板には 9世紀にすでにここに 砦が築かれたとある。 
北欧では まずデンマークがキリスト教化されたが、現スエーデンのルンドの司教がタリンの地に布教を何度か試み デンマーク王もこの地に野心を示していた。
アルベルト司教はこのデンマーク王に助力を求め、デンマーク王が トームペア(当時はリンダニセ砦といった)の砦をおそったが 負けそうになったとき、白い十字架を染め抜いた赤い旗がまいおりてきてこれに勇を得て
1219デンマークは勝利した。(何だかコンスタンティヌスの話に似ている)
その後の戦乱でデンマーク王を助けたのは刀剣騎士団 それで騎士団に正式にサカラなどの地は与えられ、タリンを含む北エストニアはデンマークのものとなった。タリンという名前は エストニア語で デンマーク人はターニイで町がリン だから、ターニイ・リンそれが短縮してタリンとなったのである。

その後 デンマークは過酷な労働にねを挙げたエストニア人の蜂起を直接の原因として遠隔地で統治に不便などの理由で1346年エストニアをドイツ騎士団に売却、翌年ドイツ騎士団はリヴォニア騎士団に転売した。

この リヴォニア騎士団についてだが、

刀剣騎士団は1236年リトアニアのザウレで大敗を喫した。かねてよりその残虐性、キリスト教徒らしからぬ被支配者への搾取などにより全ヨーロッパに悪名をとどろかせるようになっていたため、教皇にも不信をもたれるようになり、1237刀剣騎士団の残存者はドイツ騎士団の傘下に入ることになったそのドイツ騎士団のリヴォニア支部(現ラトヴィア北部およびエストニア南部)がリヴォニア騎士団でここに刀剣騎士団は吸収されたことになる。
なおドイツ騎士団は十字軍のドイツ人兵士のためにイスラエルのアッコーに作られた病院団体がもとでこれが1198年に騎士修道会として 教皇に認められたもの。その後騎士団としての発展の場所を最初はハンガリー、ついで1230年プロイセンへと求めた。(アッコーは既に陥落していた)
 

歴史の話が長くなってしまった。 しかしデンマーク統治時代も実権を握っていたのはドイツ人だった。
トームペア城 
 のっぽのヘルマン と呼ばれる塔(1371年)

   
案内板  トームペア城と のっぽのヘルマン

デンマーク王の城は現存せず、ここは家臣の木造の城があった。それを1227年に 刀剣騎士団が占領して石造にしたが、 その後、刀剣騎士団は退き次の代ドイツ騎士団が1346年に手にいれてから完成させた。(北と西側に当時の姿が残っている)
この騎士団の
城が現在の形になったのは18世紀後半、現在は政府の一部と議会が 入っている。

 
 


トームペアで まず 入ったのは アレクサンドル・ネフスキー教会

1901年に支配者のロシア帝国に(エストニアトリヴォニアは1710年からロシアの支配下にあった)よって建てられたもの。

   
 アレキサンドル・ネフスキー聖堂  

ここは写真禁止、入口から一枚だけ撮った。豪華なイコノスタシスが見える。 

そのあとは 大聖堂(トームキリク)

1219年にデンマークが占領してすぐに建てられた、エストニア本土では最古の教会。最初は木造だったが、14世紀にゴシックに改装されたが、1684年の大火災後 バロック様式になった。現在は ルーテル派。  

   
 大聖堂内部  オルガン1913年フランクフルト

ドイツ人貴族の紋章がたくさん壁にかかっている。
面白いのは信者席、寒い地域なので、ベンチの両端に扉がついている。こういうのは初めて見た。上にある小部屋はタリンの総督のような支配階級の人の席。周りや床はお墓。

   
   
   
   

また お葬式が行われるときは故人の馬も教会の中に入れたそうだ。(馬も別れを惜しんだ)

   
 大聖堂  ドイツ人貴族の館

コフトゥ通りの展望台へ 港も見える

 
 

横のスーヴェニアショップでお手洗い。小さいお人形を二個買った。(11時半ごろ)
大聖堂のほうに戻って デンマーク王の中庭へ

   
   
   
   デンマークの旗がかかっている
右のアーチの所から降りて行った

そこからリュヒケ・ヤルク(短い足)通りを下って下町へ この一週間は タリン旧市街祭りのせいか人出が多い。 

   
   途中、上の町に行く階段があった
   
 振り返る  
   
 見下ろす、 木のある横が ニコラス教会のある広場  ニコラス教会

ニコラス教会の横を曲がってラタスカエヴ通りへ、これは(つるべ井戸の通り)という意味らしい。ドゥンクリ通りとの交差点には 猫の井戸
ここには魔物が住んでいて、住民が生贄として猫を投げ込んだため、汚染されて使えなくなったという。

   
 猫の井戸  大きなお人形が立っているスーベニアショップ

さらに進むと 長い足と言われる トームペアからのもう一つの道と合流。このあたりはお土産物屋さんなどが多くて、お店をのぞいてばかりいたので説明も聞かず、写真もあまり撮らず、撮ってあっても何の建物かがわからない。しかし 撮ったいえいえいは どれも かわいくて 全部乗せたくなる。タリンは街歩きが楽しい。

   
   
   
 聖霊教会  1684年、 タリンで 初めてとり付けられた公衆時計
   
 市庁舎  
  
  市庁舎まえ広場(左に少し見えているのが 市庁舎
 
市庁舎前広場の横道を入る、レストランが多い 目指すは 正面の ペッパーサック 

昼食レストラン ペッパー・サックへ 1215分から
このあたりは商人の家家で一番上が倉庫だったので荷物を引き上げるための梁が突き出ている。
この建物は15世紀のもの。 
お豆のスープ、豚肉料理(フライドポテト、シュークルート添え)アップルパイ
 
ビール4ユーロ
 

   
 お豆のスープ  
   
  店内

みんなと頂くお食事はこれが最後。どこか一か所塩味強め、というところもあったが、三カ国、どこでもお食事は美味しく日本人の舌にあうとおもった。


そのUへ