5日目

そのU

フェッラーラ



ボローニャにしてもモデナにしても、町の起源はローマ時代に遡るが、このフェッラーラはローマ時代にはなかった。
ローマ時代の主要道からはずれていたのである。
7世紀にラヴェンナ総督府によって建設され、8世紀にはランゴバルドの町でもあった。
自治都市になったり、カノッサのマティルダのものとなったこともあった。
13世紀(アンツォ・デステ7世が行政長官に。実質的にはローマから1322年に町の叙任権を授与されたとき)から16世紀にかけてランゴバルド系の傭兵であったエステ家が支配し、ルネッサンス文化の花開いた町である。
一昨日行ったモデナの町もエステ家が支配していたことがあった。(そのせいか、モデナにはエステ家美術館もある) 
一族ではマントヴァのゴンザーガ家に嫁いだイザベラ・デステが有名、また彼女の弟の嫁がルクレツィア・ボルジアである。
塩野七生さんの『ルネサンスの女たち』や 『愛の年代記』を読んだせいで、ぜひともこの町を訪れてみたかったのだ。

 
 駅は corso gioveccaを ずっと左に行ったところ 今日行ったのは 地図上では 3,4,10,12

昨日ここにいらした方が、お城まで歩いてもそれほどではなかった、とおっしゃったので、歩き始めた。しかし方向が少しそれたせいかかなり、大回り。
13時40分頃 お城のそばまできて、食事に適当なところをとあたりをぐるぐる。 
結局適当なところが見つからず、カフェで リゾット・パルミジャーノと白ワイン(ピノ・グリージョ)コーヒーですませた。

14時40分〜15時20分 エステンセ城 地図3 1385年着工、完成は 16世紀(入場料6?)
ttp://www.castelloestense.it/en/the-castle/discovering-the-castle
このお城は上の地図からも分るように、周囲を濠に囲まれ四角く建物が建てられている。普通なら城壁に相当するところが、城館で内側に広場がある。
橋をわたって一度広場に入り、入城する。
   
   

上のサイトのdiscaovering the castele でフロア・プランが見られます。(解説もあります)
なんといっても見たかったのは 地下牢。

愛の年代記』に「パリシーナ侯爵夫人の恋」 というのがあります。
15世紀初頭、名君と言われた侯爵ニコロ三世の二番目の妻、パリシーナは20歳年下。
侯爵の亡くなった愛人には 山陰の息子がいあた。 長男はパリシーナの一歳年下。浮気な夫に愛想をつかした、彼女は 義理の息子と恋に落ち、むろん発覚。この地下牢に別々にとじこめられ、 斬首。このときふたりとも20歳だった。

その100年後、もう一人有名な囚人を持つことになる。 
『愛の年代記』 の中の「ドン・ジュリオの悲劇
ニコロ三世の孫アルフォンソ1世の妃は ルクレツィア・ボルジアであった。彼女は法王アレッサンドロ6世の娘で、チェザーレ・ボルジアの妹、兄の野心のために政略結婚させられ、これが三度目の結婚であった。
このルクレツィアの侍女アンジェラ・ボルジアを巡ってアルフォンソの弟二人(イッポリートとジュリオ)が争う。 イッポリートはジュリオを傷つけたが、枢機卿であるために アルフォンソは罰をあたえることができない。そのうち、兄侯爵への謀反(これは フェランテとジュリオ)へと発展、その結果、二人は終身刑となりこの牢に閉じ込められたのだ。
フェランテは34年間の幽閉生活ののち獄死、ジュリオは53年間の幽閉生活ののち、80歳になって牢を出ることができたがその2年後に死亡。

部屋は 牢屋というイメージからすると非常に広い。
   
   
 
 
地下に通じる暗い階段、廊下
   
   
オレンジの中庭でほっと一息。
   
 
   
このあと ルネサンスらしい華麗な部屋をざっと見る。 美しい写本の展示やデッサンの部屋もあった。
game hallの天井画
 
 
 
 
 
 
中庭
 
 
お城を出て大聖堂前へ
Catteedrale di San Giorgio  1135年から
ファッサードの一段目は ロマネスク

大聖堂の写真を撮りながら教会南側に行く。
 
 
 
 
 
   
   
大聖堂南壁にポルチコ お店になっているのに驚く 
右奥の通り Via Mazzinaが旧ユダヤ人街で、地震のために閉館中であるが、シナゴーグ(地図29)もある。
ゲットーといってもうらぶれた感じではなく、Zara などのお店やレストラン街になっている。
 
大聖堂南側 この右奥が下の通り 
 
 

ここを抜けて コルプス・ドミニ( Monastero del Corpus Domini) 地図10に行くつもりだが、道がいりくんでいてわかりにくい。
4人目に聞いた方が「いっしょに行きましょう」と言ってくださり、そばまで案内していただいた。しかし、残念なことに 11月からは冬期閉館中。
ここは、 ルクレツィア・ボルジアの墓所があるところなのだ。 
 
 修道院入り口
 
 見学者入口

しかたがないので、大聖堂へ戻る。 通りに出ると一本道で大聖堂の北側に通じていた。
途中 この町の見どころの一つである、 ロメイの家 があった。せっかくだから、 教会内にも一歩足を踏み入れた。
 
 
 
 教会内部

次に目指したのは 
大聖堂博物館 Museo della cattedrale 地図12
16:25から16:45(入場料3?)
サン・ロマン教会だったところが 美術館になっている。 教会入口のタンパンには サン・ロマンの浮彫(1143年)がある。
 
 
 
 この回廊奥に チケット売り場

時間がないので大急ぎで見て回る。
必見は コスメ・トゥーラCosme Tura (1430〜1495年)の描いた 大聖堂オルガン扉絵
ゲオルギウスの龍退治 とお告げ
ずいぶんくらいですが、実際この程度でした。
         
   
各部を拡大、 少しフォトショップで明るくしました。
この馬ものすごく迫力がある。げおるぎうすの足のこぶこぶ!
大天使ガブリエルはふつうに美しいが、 他の人物の顔が美しいとはいいがたい。 ゲオルギウスなんて死神みたい。
コスメートゥーラの絵ってちょっと怖いところがある。
 
 
 
 
明るすぎなので、 次は 明るくしないのと 両方並べると、
   
   
   
   


ヤコボ・デッラ・クエルチャ Jacopo della Quercia の ザクロの聖母(1408年) 
 
 

1200年頃の柱頭 
 
 
 
 1225〜1230年ごろ


16世紀のタピスリー
 
 

などをざっとみて出る。
お城の横にタクシーがたまっていたのをおもいだしていってみると一台もない。 横のカフェで頼むと、「そこでまっていると来る」というので待っていると、5分ほどで来た。 
駅まで 5分足らず(8?)
駅でチケット(4・6?)を買う 17:11発に間に合った。
ほぼ満席だが座れた。 ガチャンするのを忘れたが、検札には来なかった。 くたくたで うとうとしているうちに終点ボローニャ着 17;40

ホテルの先を回ったところにある スーパーでお水を二本買ってホテルに戻った。
18時55分 キューピーの おじや 鶏ゴボウ を食べた。 お昼のリゾットより美味しかった。
21時ごろ 寝る。
午前1時ごろ 目が覚めたが。、うとうとして 3時25分ごろ起き出して日記を書いたり、スマホで検索したりして 過ごした。