3日目

4月12日

シラーズ〜ナクシュ・ロスタム〜ペルセポリス
〜ナクシュ・ラジャブ〜パサルガダエ〜イスファハン


4時には起きだす。窓を開けておいたのでアザーンが聞こえた。
日記を書き、財布を整理して 洗面、着替えパッキング

ホテルのお庭

7時20分頃  朝食
このホテルはお庭が綺麗なので 少し、お散歩。
同じツアーの方と写真を撮りあって部屋に戻る。
日本に電話をした。45000リアル、(600円くらい)
8時30分 出発
まず 約60キロメートル離れたところにある ナクシュ・ロスタム に行く。
道中、アリーさんからペルシャ語を少しおそわった。
なかなか発音がむずかしい。
出発して15分後スピードコントロールということでバスをとめられた。
バスはきちんと速度を守って走らなければならない。
ここで時刻を記録され、次のコントロール場所で時刻を見て、かかった時間から正しい速度で走ったかどうかをチェックされるのだ。
タコメーターがあるので、スピードをだしてどこかで休憩して、つじつまをあわせる、ということもできないという。

菜の花畑

このあたりから、山は少し緑になり、小さな草むらも点々とある。
菜の花畑もあった。
バスの中でイランの歴史の話も聞いた。
このシラーズという町があるところはファールス地方とよばれる。
紀元前1200年ごろシベリアの南の方にいたインド・アーリア語族のアーリア人がカスピ海の北の方からやってきた。
イラン人とはアーリア人のこと
なのだ。
(国の名称としてイランとなったのは  1935年、しかし、混乱していて、正式にはイラン革命の1979年から)
アーリア人はイランの西部、東部、南部に住んだが、この南部のファールス地方の出身のキュロス大王が統一をなしとげたので、ペルシャ帝国とよばれるようになった。

 〜10時5分 ナクシュ・ロスタム

ここは、アケメネス朝(BC550年〜BC330年)の諸王 クセルクセス一世、ダレイオス一世、 アルタクセルクセス一世、ダレイオス二世の墓が岩に彫られている。
右から二番目が碑文からダレイオス大王であることがわかっているが、他はどの王の墓かは確かではない。
墓は十字形であるがその理由はゾロアスター教では、土、水、火、風 四つのものを大切にするから。
現在ではさほど高い位置に彫られているようには見えないが、当時は写真左の神殿の掘り下げ方から分かるように、3.4メートルは下がっていた。
ここを彫るのに、土で坂をつくって上から下へ坂を崩しながら、彫っていったのだそうだ。

 

ダレイオス一世の墓
中段の柱の彫刻から、ペルセポリスの宮殿が
どのようなものであったかが分かったという

左の上部の拡大(画面をクリックするとさらに拡大できます)
上にはゾロアスター教のシンボルのアフラ・マズダ
下は王が乗っている台を28人が支えている
(アケメネス朝は28の国々を従えていたので)

その下にはササーン朝(AD224年〜651年)のレリーフがある。
<アケメネス朝がマケドニアのアレキサンダー大王によって倒されてから、パルティア王国(アルサケスが率いた半遊牧民)が出現。そのあとを受けたササーン朝はファールス地方に起こったので、アケメネス朝と直結することを示そうとしてアケメネス諸王の墓の下に彫刻をした>

ササーン朝のレリ−フはローマの美術の影響もあるだけに立体感のある彫り方で馬などとても迫力がある。また人物も顔が大きく、目もはっきりしていて存在感があって、素晴らしいと思った。

シャープフル一世の息子、ナルセ王の王権叙任図
右はアナヒータ女神 王の後ろにはアフラー・マズダ
アフラ・マズダはゾロアシター教の善の神。
アナヒータは水の女神。メソポタミアの大地母神と同一視されていて
アタルクセルクセス二世の時代から信仰されるようになった。

馬上のシャープフル一世(ササーン朝第二代目の王)に命乞いする
ローマ皇帝ヴァレリヌス
シャープフル一世は260年のエデッサの戦いで、皇帝ヴァレリアヌス(在位253〜260年)
を捕虜にした。(拡大すると、尻尾のあたりに碑文らしきものが見えます)

ホルミズド二世騎馬戦闘図(4C初頭
右の人は馬から落ちている

このレリーフ(崖に彫られているので摩崖彫刻という)の手前には石積みの塔のような建物がある。何だったかについては諸説あるが、紀元前5世紀のもので、ゾロアスター教の神殿だった、という説が有力。磨崖彫刻の手前には。古代への夢をさそうように赤いポピー(アネモネ?)が揺れていた。

それから、中東の3P の一つ、ペルセポリスに向かった。
ペルセポリス 

遠くに見えるニ本の柱が万国の門
拡大してもあまりはっきりはしませんが、
中央から右に斜めに上がる階段

アケメネス朝第三番目の王 ダレイオス一世(522〜486BC)が建てた宮殿しその後も増築が続けられた 
高さ11メートルの石の基盤の上にできたものだが、10センチの高さの階段110段で上がるようになっている。緩やかな階段を上がると、万国の門(クセルクセスの命によるのでクセルクセス門ともいう)


門には人面有翼獣見張っている。この顔が削られたのは7世紀、アラブ人が偶像崇拝だと考えたから。
鷲の翼は自由、牛は恵み、ひげは経験を表しているそうだ。

 

こういう巨大な建造物は普通、奴隷を使って造らせるのだが、ペルセポリス出は奴隷を使わず、各地の職人をよんで、お金を払って造らせたそうだ。

霊鳥ホマ(イラン航空のマークにもなっている) 双子牛とガイドのアリーさん

双子牛の重さは16トン この間のくぼみの上に梁を渡した。
百柱の間の入り口の門。ここが発掘されたのは85年前、下の黒いところが土の下だったところ。上は顔を削り撮られている。玉座を持ち上げる図になっているのはナクシュ・ロスタムの磨崖墓と同じ。
 周りにはひまわりの花(下右写真を拡大すると見えます)が彫られている。12ヶ月を表しているとも言われる。
 

最上段の中央、右向きにクセルクセス一世 
が謁見をしている図
左の反対側の柱の下部、黒いところが土に
埋まっていた
 この厚みで門のようになっていた。

謁見の間に続く階段には諸国からの貢物を捧げる人の行列が彫られていた。
右上や下左の彫刻は仕切りの段にひまわりが装飾されているが、これは12ヶ月を表すともいわれている。

ギリシャ人 サカ(スキュタイ)人
帽子の形でわかる

ここには見たかった、ユニコーン(あるいは牡牛)を襲うライオンの図がある。レリーフの人も動物も全て横向きなのにこのライオンだけは前向きである。これはこのライオンが太陽をあらわしているからだという。
ニコーン(あるいは牡牛)は冬の象徴、ライオンは春。イランの新年は春分の日。そしてこのペルセポリスは新年を祝うための宮殿だ、と説明された。 
ところが、中央公論社の世界の歴史、第四巻、によると、牡牛は春、ライオンは夏の星座、春の宮殿に春が食べられる図はおかしい。(季節に関係なく)獲物に喰らいつくライオンはメソポタミアで好まれた主題、とあった。
友達からこの写真(下左)の絵葉書をいただいて、ライオンがアイルランドのロック・オブ・カシェルの教会入り口の彫刻(下右、この写真は買ってきたパンフレットからとったもので、実際の教会入り口はもう摩滅して何の動物だかは分からない)と似ている気がして、イラン旅行を決めたのだ。こうして並べてみると、どうかな?

アパダーナの階段壁面の彫刻

アイルランドの教会の入り口

口が右のはタラコ。でも前足とか耳、腰のひねり具合など写しの写しのまた写しくらいには似ていると思うのだが。アイルランドに、ライオンはいない。写本とかなにか、小物に彫られたものなどを見たに違いない。こういう図像がどのようにして伝わったのか、とても興味がある。なんとかはっきり知りたいものだ。
創元社の「知の発見叢書」の『ペルシャ帝国』には、この図から影響を受けた例として、ギリシャの壺の写真があった。それは馬を襲っているが、もっとよく似ている。(当たり前、直接見ることができたのだから)

話がそれてしまったが、 

世界ではじめて下水道を作ったのはイラン。25000年前のこのペルセポリスにも下水はあったが、残念ながら今のイランには下水はないそうだ。

アパダーナ(謁見の間)

穴の下は下水道


 王が歩くときに傘をさしかけ、蝿払いを持った従者が後ろからついていっている彫刻もあった。上の有翼円盤図はゾロアスター教の神アフラ・マズダと言われているが、正しくはファルバール(先祖の霊)。三段の羽はゾロアスター教の三つの教え、良い行い、良い言葉、良い考えを示す。

ダレイオス大王の後ろを一人は日傘を持ち、
もう一人は蝿払いをもって付き従っている

傘の上に見えるファルバール
(これは別の柱の彫刻です。右のは切り取ってみても
さほどはっきりしなかったので)

次々と見てまわってフリータイム。この時間に少し山の上にあるダレイオス二世の墓まで登られた方が多かった。私は途中まで登って疲れたので、やめにして、ペルセポリスをみおろしながら休憩。

中央の石が転がっている(実際は柱の礎石)ように見えるところが百柱の間
奥の柱が立っているところがアパダーナ(謁見の間)
 
右奥が万国の門

丘をおりて博物館(たいしたものはない、というので入らなかった)のショップで本だけ買って集合場所へ。
バスに少し乗って レストラン、ラーネ・タブーズで昼食。
屋外の木陰で気持ちはいいのだが、花びらが散ってきた。
ナスの煮込み、レンズ豆の煮込み、野菜の煮込み

食後 ナクシュ・ラジャブ へ
 ここにはササン朝時代のアルダシール一世(在位226年〜241年)、シャープール一世(241年〜272年)の戴冠図などの磨崖彫刻がある。顔が削られているのはアラブ人(イスラム教徒)が偶像崇拝をきらって削った。

シャープール一世と臣下

右側にいる神が左のシャープール一世に
王のリングを渡している

右の写真の影になっている人物の拡大
シャープール一世から三代の王のもとで
ゾロアスター教の祭司長を務めた
キルデール
この手は尊敬を表すしぐさ

右のアフラ・マズダ神が左のアルダシール一世
に王冠をわたしている

バスに一時間くらい乗って パサルガダエへ向かう。

上の彫刻のあるそば
なるほど、彫刻したくなるような岩壁がよくある。

パサルガダエに向かう途中

パサルガダエ
ここはアケメネス朝を開いたキュロス大王の宮殿のあったところ。
BC596年にネブカドネザル二世によるユダヤ人のバビロン捕囚があった。
キュロス大王はバビロンを手に入れたとき、このユダヤ人を解放(BC538年)した人なので、興味があって、このパサルガダエには是非来てみたかったのだ。
旧約聖書のイザヤ書44−24〜45-1 ではキュロスは牧者、メシア(油を注がれた者)と称えられている。これほどの大帝国を築いた王だと殺戮、略奪に走ったのではないかと思もわれるが、むしろ逆で、高潔で慈悲深かったからこそ大帝国が維持できたのだろう。
私はユダヤ人をこれほど大事にしたのは、捕囚のユダヤ人が反旗を翻すほどの力がなかったとか王の接したユダヤ人のなかに立派な人がいて、囚われの身においておくにしのびなかったとか何かあったのではないか、と思っていたが、ユダヤ人のみならず征服した地ではどこでもその土地の宗教を認めて大事にしたそうだ。実に素晴らしい王だったようだ。現代の為政者も見習うべきだ。
 

要塞、一つ一つの石が大きくて、
どうやってここまで運びあげたのか、皆で不思議がった
穴があいているのは、石と石をつなぐための楔のあと。
 後にアラブ人が鉄ではなくもっと貴重な金属と
考えて持ち去った

上からの眺め

まず最初に小高い丘の上にある要塞に行った。(結構のぼりがきつかった)のぼってみるとここは標高1900メートルだが、周りをさらに高い山々に囲まれていて、外敵から守るに都合の良い地形であることが分かる。この要塞はパルティア朝、ササン朝まで使われ、その後は使われなかった。
宮殿跡は柱がちょぼちょぼ残る程度でしかない。要塞から見ると分かるように、遺跡はとびとびにあるので、バスでまわった。

左の高い柱があるところがアパダーナ(謁見の間)
中央右の白く見えるところがキュロス大王の宮殿
そのずっと奥にキュロス大王のお墓
右の茶色い塔はアレキサンダーの牢獄



宮殿跡(アパダーナ)を見ると、このあとはお墓をみて、
戻るというので、天使像が見たいというと、バスで行きましょう、と行ってくださった。
私の読んだ本では有翼聖霊像、と書かれているが
アリーさんはキュロス大王の像だと言っていた。
髪型ははエジプト(ツタンカーメンの頭と同じ)
翼はアッシリア風の意匠、
エラム人の服装をしている。
キュロス自身、ファールス人とメディア人(イラン北東部)
のハーフだったから、色々な国との融合を考えたらしい。

 

そのあとキュロス王の個人的な宮殿へ行く。 碑文のある塔とか、石と石をくっつけるのに、接着剤をつかったあと、足だけの彫刻などを見た。

 

石と石を鉛でつないでいる

宮殿跡

碑文の柱

宮殿跡 遠景
夕暮れが近く、観光客も我々をのぞいて僅か

最後にキュロス王のお墓を見た。
写真で見たときは、使われている石の数から考えてさほど大きなものとは思ってなかったが、かなり大きい。
一つ一つの石が巨大なのだ。
キュロス大王は素晴らしい王で、ガイド氏によると、歴史の父、ヘロドトスも「やさしいお父さん」といっている、そうだ。
 帰ってしらべてみたら、ヘロドトスの『歴史』 巻三 に
------ ペルシャ人は、ダレイオスは商売人、カンビュセスは殿様、キュロスは父であったといっているが、ダレイオスは万事に商売人のやり方を用い、カンビュセスは苛酷で思いやりの心が薄く、キュロスは心優しく人民のためにあらゆる福祉をはかってくれたからである---(岩波文庫) と書かれていた。


ペルシャは史上三度攻められているが、そのどのときにもこの墓は破壊されなかった。
その理由は 
1  アレキサンダー大王はキュロスを尊敬していてこの墓の前でひれふした、とか
2  アラブ人が攻めてきたときはこの墓をソロモン王の墓と思って破壊しなかった。
3  モンゴルの来襲、 モンゴル人は暑がりなので、この南部地方にはこなかった
 そういうわけで、現在も残っている。


トイレストップのあとはひたすら、シラーズを目指す。
シラーズの入り口、コーランゲイト で写真ストップ。
 ここは切り通しのようになっていて、道路の上のほう山際は遊歩道になっている。そこを10分ばかり歩いた。シラーズの人々の憩いの場であるようで、チャイハネ(茶店)もあり、そぞろ歩きを楽しむ人、お茶する人などがたくさんいた。

コーランゲイト

そうして、空港へ。
このツアーは8日間で主な所を廻るので強行軍だ。空港レストランで夕食。 
飛行時間は短い。途中ベルト着用サインが消えなかったため、なんと降りるときにランチボックスが配られた。荷物になるので、私はノーサンキュー。イラン航空はサービスがいい?(今回の機材はオランダのフォッカー)

11時  イスファハンのホテル アセマン 着

私の泊まったお部屋

新しく出来たホテルでロビーでウエルカムドリンクと
なんとめいめい花束まで頂いた。
お部屋は808
遠くにザーヤンデ川が見える。
お部屋はシンプル。
でもタオルなどは真新しかった。