5時40分 起床
8時30分出発
金曜モスク
9世紀から17世紀まで増改築を繰り返したのでさまざまな時代の部分がある。
まず入ったのは古い部分で、天井を支えるためか柱と柱の間隔が狭く、壁や天井は煉瓦のままである。
タイルが張られていないので、ロマネスクの教会に入ったような雰囲気だ。
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皆が見ているのは、右のこのモスクの模型 |
回廊のようなところを抜けて行く。少し広いがやはり煉瓦張りで、天井(ドーム)の模様が一つ一つ違う部屋に入る。
この奥にはイラン・イラク戦争でミサイルが撃ちこまれて、修復したところがあった。
部屋全体が大きなドーム(高さ38メートル)でおおわれているところ(1008年に造られ、その後、手ははいっていない)ではドームのつくり方の話を聞いた。 ドーム天井の最初のものはローマで造られた(たぶんパンテオンだと思う)がそれは円筒形の壁体の上にのせたのでのせやすかった。四角い建物の上にドームを載せたのはイランが最初だそうだ。
まず正方形の角を切るようにして八角形にし、さらにその上に角をおとすようにして16角形を作る。そうするともう円になる、という仕組み。
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隅にアーチを架ける。 その上の間にもアーチ、その上にドーム |
それから、中庭(76x65メートルの広さ)に出て、きれいなタイル張りのイーワンを見る。イーワンとは建物の正面アーチ型入り口を四角く縁取りしたもの。ガイドさんはポーチと言っていた。イランのモスクには通常イーワンは四つある。
写真がよくない。本当はブルーがもっと綺麗でした。
イランは13世紀から15世紀終わりまでモンゴル系王朝で、彼らはもともとは仏教だったが、イスラム教に改宗するようになった。モンゴル人君主のオッジャイト(改宗してムハンマッドと名乗った)のミフラーブが西アーケードの礼拝所にあった。漆喰装飾で、コーランの文句や花などで装飾されていてイラン一美しいミフラブといわれている。ここはアーチもモンゴルのテント風。この奥には冬用の部屋もあり、暖かくするために天井が二重になっていた。
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中央が漆喰でできたミフラブ |
冬用モスク |
少しフリータイムがあったので説明はなかったが、1015年頃造られた部分にもはいってみた。窓の格子から光がもれてアラブ風、いやペルシャ風できれいだった。
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1015年頃造られた所 |
四十柱宮殿 1647年 アッバース一世によって建てられた。
名前の由来は、柱は20本だが池に映ると40本になることと、また40とは多いということを意味することから。
柱も天井も木造。天井が二重になっていて、あいだに窓がある。雨が降ったときに湿気が逃げがすためと、その窓から鳩を入らせてシロアリを食べさせる、といった工夫もしてある。
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このような像が池の四隅に立っている |
室内には宴や戦争を描いた 壁画があった。天井などの装飾も金ぴかで華麗極まりない。
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奥の右がアッバース一世、左はトルキスタンの王 |
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インドとの戦い、勝ったので、イランはインドから宝石をたくさん得ることができた。
巨大なダイアモンドもそのときに得た。
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庭に出る。この宮殿は林の中に建っていて、花壇もあり(ストックや金盞花が多かった)きれいな公園になっている。
高校生、大学生の一団がはしゃぎながら通る。絵を描いている大学生もいた。
庭の写真を撮っているとき、赤ちゃんをだいた イラン人の女の人が添乗員さんのところにきて赤ちゃんを差し出している。
赤ちゃんをだいてもらって、その写真を撮りたいというのだ。添乗員さんも皆もびっくり。
なんという人なつこさ、ナイーブさ。感動してしまった。そのあとツアーのメンバーも赤ちゃんを抱かせてもらう。
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ツアーのメンバーの一人がイラン人の赤ちゃんを抱く |
赤ちゃんのお姉さん、美少女! |
バスに乗って、ハージュ橋へ。
二階建ての橋。このザーヤンデ川にはいくつも橋が架けられているがその中でももっとも美しいとされている橋である。
水は茶色いがとても勢いよく流れている。日曜日でもないのにたくさんの人が、腰掛けておしゃべりしたりそぞろ歩きを楽しんでいる。
アッバース二世時代1666年に完成したもので 上のまん中あたり(写真では一番奥)には王様の夕涼み用のテラスがある。 また橋のそばには、ライオン像があった。これにまたがるとすぐ結婚できる、ということになっている。
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ハージュ橋のそばのライオン像 |
鳩の塔 |
それから、鳩の塔で写真ストップ。鳩の糞を肥料にするのだ。
12時〜1時 ヴァーンク教会
この教会があるのはジョルファー地区という。
ジョルファーというのはアルメニアの地名。
16世紀はじめ アッバース一世は対オスマン・トルコ戦で、このアルメニアの地が兵站地になる可能性があるので、この地の人をイスファハンに強制移住させ、町が食料補給できないようにする作戦を取った。
そうして、イスファハンの旧市街とはザーヤンデ川を挟んで反対側に彼らを住まわせた。
この時故郷を離れたアルメニア人は30万人から35万人といわれるが、多くは雪と寒さのために移動中亡くなったという。強制移住は悲劇であったが、アルメニア人は器用で金銀細工などに優れ、また商才もり、そのうえ王の保護政策もあって、この地区はお金持ちの商人の住む地域になった。現代でもアルメニア人はユダヤ人以上に商才に長けている人がたくさんいるそうだ。
アルメニアはローマよりも早く、AD301年頃にはキリスト教を受容した国である。
そのためこの地区には13のキリスト教会がある。そのうちもっとも有名なのがこのヴァーンク教会でここには博物館も併設されている。
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ヴァーンク教会 |
アルメニア人虐殺 追悼碑 |
少し前に『アララトの聖母』という映画を見たのでこの教会には特に来たかった。
『アララトの聖母』というのは1915年に起こった(その前にもあったそうだが)トルコによるトルコに住むアルメニア人大虐殺を扱ったもの。(トルコ政府はアルメニア人を破壊分子とみた。)そのとき150万人とも200万人ともいわれるアルメニア人が虐殺された。この事実をトルコ政府はいまだ認めていない。
そのメモリアルのためにこの教会では毎年4月24日には集会が行なわれるそうで、庭にその追悼碑が建てられていた。
教会内部はカメラ禁止だがビデオは2万レアル(約250円)払うと撮影できる。博物館はビデオ、カメラとも撮影禁止
教会内部は作りはモスク風だが壁全面が、旧約やイエスの生涯などのフレスコ画でおおわれている。しかもそのすきまにはモスクのような唐草模様がえがかれ、絢爛たるものである。アルメニア教会独特のものとしてはアルメニア王に拷問されながらも耐えてとうとう王をキリスト教に改宗させることができたゲリグール(パンフレットによるとグレゴリー)という聖人の一生の絵もあった。
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教会入り口 |
バベルの塔
このように壁にぎっしり絵が描かれている |
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磔刑、きょうはイエスが十字架に架けられた日 |
グレゴリーの生涯の内の一枚 |
それから、博物館へ。
ここにはアルメニア人がいかに器用であったかというその証左のような、世界最小の聖書(0.7グラム、14ページ)や、文字がかかれた金髪(虫眼鏡で字が読める)がある。
レンブラントの描いたアブラハムのデッサンや聖書の写本などもあり、興味深かった。
アルメニア人の虐殺を示す写真や行なわれた場所を示す地図などもあった。虐殺の場面は頭部が串刺しになっているなどおぞましいものだった。そこにいた博物館の女の人に私は『アララトの聖母』の映画を見たこと話をすと、興奮してエゴヤン監督の話やシャルル・アズナブール(映画は二重構造になっている。映画を作ろうとする過程と撮影現場を見せるような形で映画本編とがまざっていてその監督役がシャンソン歌手のアズナブール)の話を機関銃のように話し始めた。もう少し私に英語力があれば、色々聞けたのにと残念な思いがしたが時間も限られているので、残念ながら、彼女のお相手はアリーさんにまかせて、私は二階を見にいった。
聖書に関する絵が多いが、私は タイル絵が特に気に入った。青と黄色で乗馬姿などがえがかれている。とても良い色合いだった。写真が撮れなかったのが残念。
ショップで、乗馬の絵はなかったが、同じような色合いのタイルを買った。そのほか、この教会の聖歌隊の歌のはいったCD(グレゴリアンとは違うがとても綺麗)やパンフレットなども買った。
近くのビルの地下にあるレストランへ。ケバブ盛り合わせ、レストランの店主から、珍しい500レアルのコインをめいめいにプレゼントされた。
午後はイマーム広場(イスラーム革命以前は王の広場と呼ばれていた)へ。
イスファハンは『世界の半分』と称される。イスファハンを見たら世界の半分を見たことになる、それほど素晴らしい、ということだが特にこの『王の広場』の美しさのことをさしてこの言葉があるのだそうだ。
長方形の広場の周りを二階建ての建物(殆どお店)が囲み、各辺中央にモスクや宮殿がある。
まずイマーム・モスクへ(アッバース一世の命により1612年、着工)
唐草模様の青のドーム、くらいでさして期待していたわけではなかったが、矢張り実物は見るべきである。
タイルの硬質な肌に日の光が照り映えてまばゆいばかりの美しさでうっとりしてしまった。
近頃はテレビもハイビジョン、写真集も素晴らしいものがでているので、専門家がじっくりシャッターチャンスを狙って撮った写真を見ることができる。そのせいか、実際に現地に出かけてもせいぜい写真と同じ、どうかすると写真の方が綺麗、ということが往々にしてある。
しかし、ここの美しさは期待を裏切るようなことはない。私は素人なので、この美しさを捉えることはできなかった。
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王のモスク
入り口(エイワーン)は広場に面しているが、
ミフラーブをメッカの方向に向けるため
45度に曲がった方向にまたエイワーンと
中央礼拝所がある。 |
左の入り口の拡大 |
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ムカルナス、と呼ばれる装飾ドームの素晴らしさ。クリックするとさらに拡大できて細部がはっきりします |
ドームの高さは54メートルだが二重になっていて内側は38メートル。手を打つと反響がものすごい。
入ると、洗礼盤のような大鉢があったが、装飾は唐草模様だ。
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時代・目的など聞き逃したが、
教会の洗礼盤みたいだ。
しかし模様が矢張りペルシャ |
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右の柱のつなぎ目に鉛が使われている
(鉛は柔らかいので地震対策になる) |
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モスクの中庭、一面のタイル装飾が見事だった |
日時計、この斜めのところに影がきて
時間がわかる |
タイルに描かれて模様が美しくおなじところを何枚もカメラにおさめてしまった。
モスクの中庭には池がある。
水が張られていないところが多かったがここは水が張ってあった。
池の向こうが入り口。上左がその正面。神学校もあった。夏用と冬用の二つある。
神学校のある中庭には石の日時計もあった。
その次はシェイフ・ロトフォーラー・モスク(これもアッバアース一世の命によるもの)
ここは王族だけのためのモスクなので、ミナレットはない。王のモスクとは地下でつながっていたそうだ。
ここはタイルではなくモザイクで模様が作られている。絵を描いたモザイクを並べるより作るのは難しい。作った人のサインがあった。
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シェイク・ロトフォッラー・モスク |
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造った人のサイン |
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まん中に緑の孔雀 |
四隅を切るように尖頭アーチで八等分、
その間に小さなアーチを入れて十六等分 |
ここの礼拝所の天井は光を当てると孔雀が浮き出るようになっていた。
ここのドームでも四角い建物の上に円形ドームをのせ方を説明された。
アリカプ宮殿
三階のテラスから下の広場を見下ろす。
長らく修理中で入れなかった5階の音楽室に入ることができた。
ただし、ここの階段は一段が通常より高くてあがるのに非常に疲れた。
音楽室は音響効果のために装飾的な刳りぬきがほどこされている。
木製に見えたが、漆喰でできているそうで、この模様は楽器であるといわれているがそれはまちがいで酒器だそうだ。
刳りぬきの残った部分にまで唐草模様が描かれている。
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くりぬき拡大
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天井のドーム |
フリータイムはショッピングタイム。
細密画を買いたい人ペルシャ更紗を買いたい人、それぞれアリーさんが案内してくれる。
まず細密画を買いたい人がでかけた。
私は細密画パスの人と広場の回廊のお店を見て廻る。決心がつかないまま時間になり、買ったのはアイライナー入れ(ラクダの骨でできている)だけ。
更紗の店にはアリーさんと行った。このペルシャ更紗は、ガラム・カールと言われるもので、木綿に木片でプリントしたもので、染めた人のサインが入っている。なかなか決められなかったが、折角来たのだからとベッドカバーを買った。(まけてもらって45ドル)
ホテルに戻って食事
レストランは最上階の回転レストラン。イスファハンの町が眺められるので嬉しいと思っていたが、外を眺めているとなんだか船酔いしそうになった。
前菜でおなかが一杯なのにメインの鱒のフライの大きいこと。殆ど残してしまった。勿体無い。二人どころか四人で一皿でいいくらいだ。
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メインの鱒のフライ |
そのあとはバスに乗って夜景観光。
まず、33アーチ橋へ、400年前にできたもっとも古い橋。
それから、イマーム広場へ、 昼間とは違った雰囲気だ。
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33アーチ橋 |
イマーム広場 |
当初の予定は金曜モスクの観光は翌日のはずだったが、テヘランの宝石博物館が予定の日は閉まっている可能性が高いとかで、少しずつ予定をつめて、テヘランに早く戻ることになったので、きょうは本当にめまぐるしい一日だった。
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