2時過ぎに目が覚めた。
携帯でメールをうったり本をよんだり、片付けをしたり家に電話をして女子フィギュアの結果を聞いたりして5時30分に本格的に起きる。
7時30分 朝食に降りる。ビュッフェ、パンが美味しい。
8時 荷物出し
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左がウダイヤのカスバ |
8時30分出発だが、全員そろったので25分に出発。
今回のツアーは皆さん早め早めの集合で、私はいつも最後になってしまう。
すぐにウダイヤのカスバに着く。
ここは、18世紀にアラブのウダイヤ族の守備隊が駐屯したので、こうよばれている。
城壁はムワヒッド朝時代のもので、17,8世紀に手を加えられている。
ウダイヤ門。12世紀に建造されたもの。
アーチの形は頂が尖頭形になっている馬蹄形。
これは鍵穴形でもあるので天国への鍵ともとられるそうだ。
ヨーロッパのロマネスク教会ではアーチは半円形が普通で馬蹄形だとイスラムの影響(実は西ゴート時代にすでに存在していてスペインの古い教会には残っているのだが)でどの地域にも見られるというものではないので、おお、と感激してしまう。しかし、ロマネスクの教会の入口とはまったく雰囲気が違う。
イスラムでは文様は通常、草花や幾何学模様、アラビア文字に限られるがここには蛇も彫られている(アーチの付け根)。蛇はガード(守り)の意味があるそうだ。

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ウダイヤ門、性格にいうと、これはウダイヤ門を入ってすぐの門だが
(もしかしたら、これらすべてを含めてウダイヤ門というのかもしれない)
アーチはほぼ同じ、 外側の門のところでとった写真は人が多くてつかえないので、こちらにした |

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蛇(これは外側の門の写真なので、上と少し彫刻が違うところがあります) |
扉の留め金 |
昨日のハッサン塔といい、このカスバといい、だんだんモロッコっぽくなってくるのが嬉しい。
高い壁、重厚な門の奥は、、、、、、。タイルで飾られた水のみ場。そして白い町!!
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水飲み場 |
白い町 |
細い路地、家々は下が水色で上が白に塗られている。ドアには鉄の飾りが打たれていたり、『ファティマの手』のドアノッカーが付けられている。ファティマとはムハンマドの娘の名で、ファティマの手は魔除けなどの意味を持つものとして、イスラム圏ではよくドアノッカーに使われる。アクセサリーにもこのデザインはよくあり、私もペンダントトップを買った。

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横の柱には何とハサミまで、付けてある
(拡大するとはっきりします) |
ファティマの手、のドアノッカー
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朝早いせいか、出会った人は数人。観光客も我々のグループのみ。青と白の幻想的な世界。まるで夢の中に迷いこんだようだった。

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辿ってみたくなるような小道が次々に現れる |
占い師の家もあった。
壁にもたれていたおばあさんは写真に撮られまいと、手で顔を隠す。写真にとられると、悪魔に魂を抜かれるとか、何とか言う迷信があるかららしい。

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占い師の家、(拡大すると、貼り付けてあるもので
それらしいことが分かる) |
写真を撮られまいと顔を隠す(悪かった) |
ブー・レグレグ川を望む茶屋で一休み。
アンダルス風庭園。1915年から18年にかけて造られたものだ。手入れがあまり行き届いていなくて、少々伸びほうだい。それがかえって風情があって好ましい。庭園を暫くそぞろ歩き。
これでカスバ観光はおしまい。

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上がウダイヤ門、上右手から入り、下の門から出てきた |
9時25分、バスでタンジェに向かう。

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マモラの森のコルク樫 |
途中、左手に『マモラの森』がある。ユーカリやコルク樫が植えられている。コルクは27年たつと、9年ごとに皮を剥いで、ワインの栓や建材、タンニンとして使われるそうで、木の下部が剥がされて黒くなっていた。また牛や羊もいる。ここでドライブやピクニックもできる。
コウノトリも見かけた。ルーマニアやブルガリアで沢山コウノトリを見たがその時、これらはアフリカから飛んできたのだ、と言っていたことを思い出した

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沿線は砂地のところもあれば赤土のところもある |
モロッコで穫れない作物はないそうで、小麦、さとうきび、苺、ジャガイモ、バナナなどの畑が道の両側に続く。アフリカとは思えないほど緑が豊かだが時折赤土がのぞく。鉄分が多いのだ。海が左手に見える。
12時50分 スパルテル岬 到着。
まずレストラン CAPSPARTEL で昼食
メインは、お魚のフライ。揚げ物は苦手だが、これは油っぽくなくて、とても美味しかった。
モロッコサラダ、フルーツカクテル

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モロッコサラダ |
魚のフライ |
ここがアフリカの北西端。ジブラルタル海峡によって、地中海と大西洋が分かたれている地点だ。不思議なことに地中海の水と大西洋の水は決して混ざることはないそうだ。
晴れているので海の色が美しい。遠くにスペインの山々がうっすら見える。

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スパルテル岬の灯台 |
拡大していただくともう少しハッキリします。
右奥の白いところがスペインの町、
手前の濃い青が大西洋、遠くの薄い青が地中海、と区別できる。
地図でいうと、モロッコに立って、右(東)を見ていることになる
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14時25分 ヘラクレスの洞窟
真っ暗な石灰岩の洞穴を降りていくと前方にぽっかり穴があいていて、海が見える。波による侵食で自然にできたもので、名前は、ギリシャ神話で、ヘラクレスが12の功業を成し遂げてここで休んだことに由来するそうだ。
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洞窟入口 |
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ヘラクレスの洞窟、アフリカを左右逆転させた図とか、人の顔の形をしているとか、いわれている |

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お天気がよかったので、海の色が綺麗、右は洞窟とは反対側のビーチ |
バスでタンジェ(昔学校ではタンジールと習ったと思うがこれは英語)へ。
15時30分 タンジェ

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タンジェの町 |
メディナの入口 |
ムハンマド5世広場でバスを降りて、メディナ(旧市街)、プティ・ソッコへ。(4,50分の観光)
映画『シェルタリング・スカイ』で見たようなホテルがあった。

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向こうに見えるようなホテルの窓から、映画のヒロインが身を乗り出していた場面をおもいだした |

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カフェ 男性ばかりだ |
独特の衣装を着けた山羊のチーズ売り
(写真を撮られたくないので顔を隠す)
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スークには、リフ地方独特の帽子(タルザという)をかぶり、赤い縞模様のスカート(フウタという)をはいた山羊のチーズ売りがいた。写真を撮られたくないので顔をかくす。狭苦しくてあまり衛生的とは思われないスークを通りぬけて、グラン・モスクへ。巡礼団の一行が笛や太鼓をにぎやかに打ち鳴らしながらモスクに入っていった。

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モスクの前の巡礼団 |
グランモスクのミナレット |
それから、展望台へ。タンジェ湾と旧港を見る。古い大砲がおかれていた。

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展望台 |
城壁の外へ。三日月マークは薬局のしるしだそうだ。

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メディナを出て海岸通りを歩く |
バスに乗ったが時間があるので、少し砂浜をお散歩しましょう、ということで砂浜を歩く。地中海だ。ここからの方がスペインがはっきり見えた。記念に砂を少し拾った。

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タンジェの海岸
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拡大していただくと、遠くのスペイン
がもう少しはっきりします
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16時50分 インターコンチネンタルホテル着
部屋は二階で眺めがよくない。おまけにカーテンが一重で、レースカーテンがないので、外から覗かれない様、カーテンをひくと、電気をつけなければならない。(モロッコのインターコンチネンタルで、ヨーロッパのとは違うそうだ)
夕食まで時間があるので、Hさんを誘って少しホテルの外を歩いてみたが、道に迷いそうになったので、ホテルに戻り、中庭で写真などをとって、部屋に戻った。

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泊ったお部屋 |
ホテルの中庭 |
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旅行前に『モロッコ流謫』四方田犬彦著 を読み返した。
この著者は映画評論家でエッセイスト。
『シェルタリング・スカイ』という映画を私はデヴラ・ウインガー主演で監督がベルトリッチ、ということだけで観たので、原作が誰かはこの本を読むまで知らなかった。ポール・ボウルズというアメリカ人(ジューイッシュ)が書いたものだそうで、四方田氏はボウルズの他の作品を訳してもいる。この本はボウルズ論を中心とした、モロッコ紀行。
ボウルズはこのタンジェの町に37歳から本格的に住みはじめ、99年、86歳でこの地でなくなるまで住んでいたそうである。この街は画家マティスはじめ、作家のカポーティやテネシー・ウイリアムズなどを魅了した。
『離散するユダヤ人』(岩波新書)の中でも小岸昭氏はスペインから船でタンジェに渡り、15世紀末にスペインを追われたユダヤ人の気持ちに思いを馳せている。タンジェは流謫の地なのである。これらの本の影響もあって、タンジェはぜひとも来てみたかった街だった。 |
ヨーロッパのように治安の心配をしないですむところなら、これだけ時間があれば町中に出かけるのだが、港町は危ないかもしれないので、出かけるのをあきらめたがとても残念。機会があれば今度はスペインから船でジブラルタル海峡を渡ってみたい。
入浴
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ローストチキン |
19時30分 夕食
野菜スープ、ブルワッツ(春巻きみたいなもの)、ローストチキン、クリームカラメル
おしゃべりに夢中になってほかの写真を撮り忘れた。
21時過ぎに部屋に戻り、21時30分ごろやすむ。翌朝午前3時ごろまで、良く寝られた
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