5日目

6月8日

オランジュ滞在(ヴィルヌーブ・レ・ザヴィニョン、アヴィニョンへ)

 


5時20分  起床 
6時30分〜 7時10分 散歩
朝食までに時間があるので、町を歩いてみることにした。
先ず旧ノートルダム大聖堂へ.。外側を見るだけ。 ロマネスク様式だ。

左が泊まったホテル 旧ノートルダム大聖堂

それから、古代劇場に行く。アルルと同様、この町もローマの植民都市なのに、道がまっすぐではない。小道が途切れたり、曲がったりで、通りの名を確かめながら歩かないとどこをあるいているのか分からなくなってしまう。しかし旧市街は狭いので、まったくの迷子になる心配はない。

ローマ劇場、舞台の後ろ

上の写真の左側の道を少し入ったところ

劇場前のカフェは店開きを始めたところ。ご主人が何かとはなしかけたそうに、ボンジュール、ナントカコントカ。言っている。

7時30分 朝食
アルルのホテル同様、コンチネンタルで、質素。ホテルの朝食というと、たくさんの種類のチーズやハム、ペーストリーなどを期待(といっても私はあまり食べないのだが)するので、何となくさびしい。ここもアルルのホテルも注文に応じて卵料理は出していたような気がするが、私はいつも頼まないので、記憶はさだかではない。

ホテル内部 朝食

8時55分 ホテル出発 (今日は現地ガイド付き)
バスの中から進行方向左手にダンテル・ド・モンミライユという岩山群とヴァントゥー山が見えたが、私はあいにく右側に座っていた上、カメラを取り出すのも遅くて写真を撮りそこなった。のこぎりのようにギザギザした、白い石灰岩の岩山。(ダンテルとはレース飾りのこと)
プロヴァンスは風がない日の方が珍しいそうだ。だからといって風力発電がとくに多いというわけではなく、1パーセント。八割は原子力発電で、ローヌ川の水を冷却水に使っているそうだ。
ローヌ川を渡る。

ローヌ川 向こうに見える塔はフィリップ美男王の塔(14世紀初頭)

9時50分ごろ ヴィルヌーブ・レ・ザヴィニョン着。 (訳すと、アヴィニョン新町)
 
この町はローヌ川を挟んでアヴィニョンの対岸にある。アヴィニョンは教皇領、こちらはフランス王の領土。
ここに見張りの塔を建てて、教皇領を見張った。
またアヴィニョンは狭いので、枢機卿たちはこの町に館をかまえ、大邸宅(15ある)を建設。また丘の上に国王はサンタンドレ要塞を造って、教皇領を監視した。
 
ゆるい坂をあがっていく。

途中のお店

リュクサンブール博物館の隣、中庭の入り口?

まず ピエール・ド・リュクサンブール博物館
ここはもとはリュクサンブール枢機卿の館(この人物、1387年に19歳で亡くなったそうだ。夭折はかわいそうだが、そんなに若くて、枢機卿になれるものなのか。

ここはずっと見たいとおもっていた絵があるところなので、心がはやる。(このツアー、プロヴァンスの三姉妹を訪ねるだけでなく、この絵がみられる、ということも選んだ大きな理由)

まず、一階にはいろいろ彫刻がある。

14世紀の聖母像 ルネ王の二番目の妃のマスク

二階が絵画。
私の見たいアンゲラン・カルトンの『聖母戴冠』 は、それ一枚だけがひとつの部屋にかけられているのだが、そこでは数十人の人たちが説明を受けている。
先に隣の部屋のカルトジオ会のことを描いた絵をみる。

聖ブルーノ(創始者) カルトジオ会修道士の受難

右の絵の時代がよくわからなくて、お友達のYさんに、中世史がご専門でカルトジオ会にお詳しいS先生におききしていただいたところ、、ユグノー戦争(1562年〜98年)(プロテスタントとカソリックの争い) のころではないか、ということであった。

『聖母戴冠』の 説明がなかなか終わらないので、カルトンの絵のある部屋に入った。後ろで見ていたが、もっと近寄ってみたかった。そのうちそばに行ってもいいといわれたので、説明を受けているのに悪いと思ったが、前によってみる。


この絵は 世界大全 とも言われるほどで、天上界、地上。冥界(下左)、 煉獄(その隣、煉獄というのは、 改悛した死者が、天国に入る前に清めをうける場所のこと、ここで苦しむことにより、罪は清められ浄化されるが縁者などの祈りや善行によって苦しみは軽減されるといわれている。現在のカトリック教会はこの考えを放棄している)、地獄(下右)などが描かれている。
説明に時間がかかるのは当然。
冥界の嬰児と、天国の最下段の嬰児との対応、煉獄の白い浄罪火と地獄の赤い業火との対応など。また描かれている町についてとか、興味深いところが色々ある絵なのだ。
1415年ごろの作品で、183×220cm という大きな絵。(一番下の人物が15pくらいの背丈に描かれている)
これから行くカルトジオ会修道院聖堂付属礼拝堂の主祭壇のために描かれた、非常に絢爛豪華な絵である。
聖母戴冠というとよく見るのは キリストがマリアに冠を授けている図であるが、ここでは 父なる神も子なるキリストや精霊の鳩とともに描かれていて、さらに 父なる神と子なるキリストはまったく同じに描かれている。
これは東西教会の帰一、と関係があるそうだ。(詳しくは 講談社 名画への旅 第9巻  北方ルネッサンス) (北方ルネッサンスに入っていることからも分かるように、カルトンは北仏出身)
それにしてもこのマリア様、顔立ちが日本風、和服を着ていてもおかしくない、
 
個性的に描き分けられた聖職者などの顔を近くでじっくり眺めたかったが、あまり長く前でがんばっているのもよくない、と思いあきらめたが、ちょっと残念。
こんなにゴージャスな絵を修道院はよくかかげていたものだと思う。それと、どうも修道会というのは聖母崇拝が強いのではないか、という気がする。



10時45分、ここを出て5分ほど歩いて修道院に行く。入り口の柱にローヌ川が氾濫したとき(1856年5月1日)の最高水位が示されていた。(右写真)
ここまで、ゆるい坂道をあがってきたのに、まだ私の背より上に記しがあった。
右写真クリックで修道院の案内図


10時50分 カルトジオ修道会 祝福の谷修道院
ここの修道院は現役ではないので、出ていないが
カルトジオ会についてもう少し知りたい方は
カルトジオ会のホームページ  http://www.chartreux.org/index.php が参考になるかもしれません。
この修道院は1352年に当時の会の総会長が教皇に選ばれたが、謙虚な方だったので、辞退。代わりに選ばれた インノケンティウス六世は、その行為を記念して、自身の住まいにこの修道院を創立。その後拡張されて、フランスでも主要なカルトジオ会の修道院となっている。

カルトジオ会とは  聖ブルーノが、1084年にグルノーブル郊外の山の中に建てたラ・グランド・シャルトルーズ修道院が起源。 
11,2世紀は教会改革の時代。クリュニュー修道会が典礼中心で貴族たちの寄進により富み栄えて、本来の姿を失っているとして、この10年後にはシト−の修道院も創設されている。

カルトジオ会の特徴は、古代の隠修士のように、社会から離れて祈りの生活を行おうとしていたことだが普通、隠修士になるには共住して修行を積んでからでないと、自分勝手になりがちとされている。そこで、ここでは隠者の共同生活、という形をとっている。修道士は個室にこもって祈りの日々をおくり、日曜にはみなで会食、おしゃべりもできたそうだ。

『僧院の生活』フランスのくらしとあゆみ ダニエル・アクマン画 ルイ・ベック文 西村書店 という本をS先生の講座に出られたYさんに教えていただいた。 
子供向けに描かれた絵本だが、 絵と文で僧院の暮らしがよく分かる(こういう絵本が日本語に訳されて出版されているといこと自体が驚き)
その本の挿絵に教会堂の壁に (下のように)聖母戴冠 と並べて ピエタ(ピエタ・ダ・ヴィニョン) (ピエタは163×218)が架けてある絵があった。

カルトン作といわれている『ピエタ』(ルーブルのパンフレットより)

聖母戴冠の絵の多くで、マリア様は誇りに頬を染めて恭しく冠を授かっているが、カルトンのこのマリア様はなぜか寂しげに見えて気になっていた。でもピエタとセットならそれも頷ける気がする。

この修道院はもう現役ではなく歴史的記念物として、一般の人に参観を許しているほか「出会いの文化センター」として文化的な催し物などに使われている。
17世紀に造られた門をくぐり、受付を通って、中庭へ

サン・ジャン内庭回廊。回廊部分はなくお庭だけ。中央に大きな泉水がある。

それから、教会へ。がらんどうで、向こうにサンタンドレ要塞の壁がみえる。横にインノケンティウス六世のお墓

教会、向こうの壁はもうない
奥に見えるのはサンタンドレ要塞
フランボワイヤン・ゴシックの天蓋のなかに 
インノケンテイウス六世の横臥像

墓廟のあるチャペルは改修中で、工事のために少し開いていたがすぐに閉められてしまった。
出ると、小内庭回廊 、ついで、チャプタールーム
ここのリブのひとつには修道士と雄山羊(悪魔の象徴)が彫られている。

教会堂からチャプタールームへの回廊、
奥へ行くと修道士の個室

横には聖具係の中庭。床屋さんもあって、修道士がひげをそったり、剃髪するために井戸がある。

井戸

修道士の個室が並んでいる。その一番手前の部屋が見学用に中が再現されている。
まず入り口の扉のそばの壁に小さな扉。旋回受付口。ここから食事を入れる。少し曲がったたところに部屋側の扉。これにより、修道士は食事係と顔をあわせることなく食事が受け取れる。まるで、刑務所みたいだ。

個室入り口、右の四角いところを開くと 旋回受付口

部屋に入るとびっくり、かなり広い。入るとすぐ居室。ここで、祈ったり聖書を読んだりする。暖炉もある。
隣の六畳くらいの部屋は作業室で、彫り物でもするのか、丸太が置いてある。その横の扉は坪庭(まさに一坪くらい)の庭に出られるようになっている。

居室 作業室

居室の隅には回り階段があって階上に上がる。ここは寝室(8畳以上の広さ) で箱ベッドが壁側にある。反対側にはトイレ。
横の扉からは下の坪庭が眺められる。メゾネット式マンションだ。

左がベッド、その横はベンチ、反対側にトイレ 坪庭を見下ろす

一人住まいには充分すぎる広さ。といっても修道士は貴族階級の出身だから、これでもわび住まいかもしれないが、シトー会修道院の大部屋とは大違い。ここでは修道士は常に12人と決まっていて、許された者しかなれない。それ以外に彼らの修道生活を助けるための助修士たちがいて、40人ほどがこの広い修道院に暮らしていたそうだ。
修道士は普段は個室で暮らし、しゃべっていいのは週に一度だけだったそうだ。

それから、個室の並ぶ長い廊下を通って、洗濯室へ。その上には罰を受けた修道士が入れられる部屋があった。
次にもうひとつのチャペルに。ここにはマッテオ・ジョバネッティのフレスコ画があるのだが、鍵がかかっていて、入れなくてがっかり!
(ガイドは「今日は開いてないですね」、ですませたが、二度と来ないかもしれない人にとってはそんなに簡単に言われたくなかった)
しかし、修道士の個室内部が見られたのは予想していなかっただけに、大収穫。

右模型の教会堂横の内庭 修道院の模型、左手前が教会堂、
右に家が立ち並んでいるのが修道士の個室

売店で買い物をして、外に出た。
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