2時半頃一度目が覚めるがそのままウトウトして、4時過ぎには起きて、少し本を読んで、5時頃本格的に起き出す。外は23度。
7時 朝食 ヨーグルト+フルーツ ケーキのようなパン、チーズ コーヒー
8時30分 バスで 出発
メンバーの方の希望を入れて、旧共産党幹部の家々やチャウシェスク元大統領の住まいなどを車窓から見る。
米原万理さんの『嘘つきアーニャ、、、』という本では、アーニャの家を95年に訪ねるのだが、チャウシェスク政権当時の幹部だった父親は体制崩壊後もまだ、豪壮なな守衛つきのアパートに住んでいて、あいかわらず豪華な暮らしをしているのをいぶかしく思うくだりがあったことを思い出しながら、木々の生い茂る住宅地を眺めた。
9時 凱旋門へ行き、写真ストップ。
この凱旋門は最初はルーマニアの独立記念に、第一次大戦後(1919年)には同じ場所に木製のものが建てられ、現在の石造りのものは、1935年、ルーマニアの彫刻家たちによって作られたものだそうだ。
ここは、市内でも外れだが、ブカレストの町は緑が多い。
マロニエや菩提樹など。
このあとひたすらシナイアに向けて走るのだが 道路は舗装されているとはいえ、ブカレストを離れるにしたがって、ガタガタ道になる。
途中に石油工場があった。ルーマニアは石油産出国だ。
10時5分〜15分間トイレストップ。 |

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その後暫く行くと両側に山が見えてきて、とても深い森が続き気持ちが良い。
いよいよカルパチア山脈にはいってきたのだ。
ガイドさんの話では、ルーマニアは上層、下層階級が多くミドルクラスは少なく、また消費税は19%。来年には21%になるそうだ。
11時20分〜40分 シナイア(標高800メートル)の僧院観光。
通常ここは写真ストップで、中には入らないそうだが、添乗員さんのはからいで入ることができた。
奥の古い教会のフレスコ画が良いというので、急いで奥へ行く。
フレスコ画もいいが、庭の佇まいがすてきだった。
古い教会は17世紀にワラキア公カンタクジノが、この地を訪れた記念に建てたそうで、シナイアという名は公が巡礼した、あのシナイ山にちなんでつけられたそうだ。
新しい教会は、19世紀にルーマニア王となったカロル一世が建てたもの。
少しバスに乗って、近くのペレシュ城に向かう。
11時50分〜13時30分 カロル一世 (在位1866〜78)(ドイツのホーエンツォルレン家から招かれて王となった) が1875年に立てた夏の離宮。
内部はガイドツアーで、残念ながら写真撮影は禁止
おまけに床をきずつけないために、オーバーシューズをはかされる。ツアー仲間が小さいのを探して下さったが、それでも脱げやすくて、引きずるようにして歩かなくてはならなかった。
ルネッサンス、バロック、ロココなど様々なスタイルを取り入れた、二人のドイツ人建築家によるドイツ様式ということだった。
160の部屋に30のバスルーム、エレベーターや、集中式真空掃除システム、セントラルヒーティング、吹き抜けホールの天井は電動開閉式になっているなど、当時の科学で出来うる限りの工夫がなされているのに驚いた。
ちょっとゴテゴテしすぎだが、夏の離宮だけあってさほど大きくはないのが好ましかった。
その後バスで、ブラン城に向かう。途中 ワラキアから、トランシルヴァニアに入る。
トランシルヴァニアとは、森の彼方の国、という意味だそうだが、本当に深い森の中をバスは走っていく。
2時50分〜3時50分 POPASUL REGINI で昼食
トマトスープ、チキン、デザートはブラショフ名物のパパナッシュ
そのまま歩いてブラン城へ、少し雨が降ってきた。
3時50分〜5時20分 ブラン城の城内観光(内部のビデオ撮影料 18万レイ(720円))
このブラン城は吸血鬼ドラキュラの居城のモデルになった城だ。
この城は1377年ドイツ商人がオスマン軍を発見するために築いたものを15世紀にドラキュラのモデルとされるヴラド・ツェペシュの祖父が一時所有、その後通商路を守るためにドイツ商人達が管理、それが1920年フェルディナンド王妃マリーに贈られ、夏の離宮として使われたもので、ドラキュラからくるホラーっぽいイメージは全くない。
ただし、階段が多くとても入り組んでいて、上ったり降たり、お姫様も楽ではないな、と思った。
この王妃は子供の面倒も見ないで、とても自由奔放な暮らしをした人だという。

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マリー王妃 |
梁のペインティング ぶどうはこの地方独特の図柄 |

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しかし、帰国して読んだ 『バルカンの亡霊たち』 ロバート・カプラン著 によると、このイギリスのビクトリア女王の孫(ロシア皇帝の孫でもある)のマリーは第二次バルカン戦争と第一次大戦中、ダキア人が信じていた異教の戦いの女神のような服装をして、戦場に出かけていって、兵士たちのわきで眠り、また、第一次大戦後にトランシルバニア地方をルーマニア領として確保した人物。自ら進んでルーマニア人となり、のちに生まれたファシストや共産党員たちの誰よりも、ルーマニア人とはどういうことかを国民に教えた、と書かれていた。

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中庭の井戸 |
ワラキアとトランシルバニアの国境を見下ろす |
ここはルーマニアでも有名な観光地であるためか、お城から出た所には露天やマーケットなど、おみやげ物やさんがたくさんある。
バスの中でかかっている民族音楽のフルート(これは多分パン・フルートだと思う)の音がステキだったので、CDを買いたいと思ってお店のぞいていたが、曲名がわからないので、運転手さんにきいてから思って買わなかったが、結果的にはここしか買える所はなかったので、買いそこなうことになった。(バスのなかで、景色を撮るためにビデオをまわしていたので、音楽も録音されていて、ビデオをみながら、音楽もきいて、今ルーマニアを懐かしんでいる)
このCD店ではポルムベスクの望郷のバラードがかかっていた。朝日新聞連載の『百年の預言』に出てくる曲だ。私は天満敦子さん演奏のCDをもっているが、かかっていたのは他の演奏家のようで、あのたっぷりした歌い方ではなかった。
バスに乗ってブラショフへ、
ブラショフという町は12世紀にサクソン人が建設した町。
5時55分〜6時30分 黒の教会を外から眺めて 少し自由時間。本やカレンダーを買う。

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歴史博物館
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スファトゥルヌイ広場から黒の教会を見る
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教会の時計塔
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この黒の教会は、14世紀から15世紀にかけて、建てられたトランシルヴァニア最大のゴシック教会。1689年の火事で、屋根が全焼し、壁が真っ黒になったことから、黒の教会、と呼ばれるようになったそうだが、ヨーロッパの教会にはすすで、黒くなったものも多いので、この教会がとくに黒い、とは感じなかった。中にはいれなかったのが残念。
その後バスで、聖ニコラエ教会へ言ったが残念ながら、門が閉まっていた。
この場所はスケイ地区と言って、ブラショフがドイツ移民によって建設された当時移住させられたルーマニア人が住む地域で、この教会はルーマニア正教。

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ニコラエ教会のある広場で |
ニコラエ教会の近く |
この町は中世の面影を残した趣のあるステキな町で、これだけの観光で立ち去るにはあまりにももったいない気がした。
7時 ホテル・キャピタルに到着。
夕食まで一時間あるので、いそいでお風呂に入ろうとしたが、水が赤かったのでやめにする。
ホテルの前は公園で、綺麗な建物もあった.
これまでならホテル到着後すぐに付近を散策するのだが、部屋で休んだ。やはり、年かな。
窓からは、黒の教会の屋根や山が見えるので、写真を撮ったり、荷物を整理したり。

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ホテルの部屋 |
部屋からの眺め |
部屋から黒の教会の屋根が見えた |
8時 夕食 チキンスープ、豚のステーキ、サラダ、アイスクリーム
ここで、自己紹介をした。
最高齢は82歳の男性。2ヶ月に一度は海外旅行をなさっていらっしゃるそうでとてもお元気。
男性では55歳という方がいらしたが、女性の年齢幅は10歳くらい?
全体として、60代が中心のようだ。もう夏休みというのに学生や ハツラツOLがいたり、などということがなくてこれまでのツアーに較べてメンバーの構成が何となく似通ったというか、均質的な感じだ。
夕食後もう一度お風呂にお湯を張ってみると、赤くはなかったので、洗濯もした。
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