快晴
ここの朝食レストランは豪華だった。
昨夜、添乗員さんがくばってくださったお味噌汁をいただいた。久しぶりの日本の味、美味しかった。
他の国の人たちはお味噌汁の香りをいぶかしく思ったのではないか?
8時15分 バスでバチコボに向かう。
途中アセニッツァ川にそって、少し山の中にはいっていく。
バスを降りるとひんやりする。
バチコボ僧院はブルガリアではリラの僧院につぐ大きな修道院
8時50分〜9時35分 修道院 観光
赤い屋根の美しい僧院で写真に撮りたいのに、外観すら写真禁止。
ダメと言われる直前に撮ったのがこの二枚。
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入ると左手にこの僧房 |
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この僧院は1083年に、二人ノグルジア人修道士によって建てられた。
オスマン時代には荒されたが17世紀に大がかりな修復がなされた。
現在も10人の修道士がいる。
中は薄暗くすすけている。聖母教会ではミサが行なわれていた。とても厳粛な雰囲気で緊張した。
普段は閉まっているイコノスタシスの真中があいていて、奥にも二人修道士がいた。
修道士の食堂。ここはフレスコ画がみごとだった。天井の絵はアルパナシの生誕教会に似ていた。
それから、台所。すすけているが、作りはフォントブロー修道院(フランス・ロワール地方)のロマネスクの台所とおなじだ。
バスで、プロブディフに戻る途中、またポリスの抜きうちチェックがあった。
10時15分、トリモンティウムホテルで、トイレ休憩ののち、そのまま、徒歩でプロブディフの市内観光。
ホテルのある中央広場から、メインストリートのアレキサンドル通り(舗装工事中)
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教会の塀に張られていた写真 |
聖マリーナ教会(1856年、ここは写真禁止だった。なかでミサをやっていたが、とてもきれいな歌声、カメラ禁止なので、撮らないつもりだったが、うっかりスイッチをきり忘れて(時々私はこういう失敗をする、真っ黒な画面がつずいたり、足だけが写っていたり)ケガの功名というべきか、今回もカメラは下を向いていたので、足だけしか写っていないのだが、嬉しいことにきれいな歌声がビデオに録音されていた。
教会の前の掲示板にいくつもの顔写真がはってある。何かとおもったら、これはこの教会員で最近亡くなられた方の写真だそうだ。(悪いけれど行方不明者探しか、指名手配みたいだと思った)
それから、スタンボリスキ広場
ここにはローマの競技場跡、アレキサンダー大王の父である、マケドニアのフィリップ王の像がたっていた。 紀元前4世紀にはこの町はマケドニアの主要都市で、フィリッポポリスと呼ばれた
その横には、ジュマヤ・ジャーミー。色々な時代が同居している広場だ。
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マケドニアのフィリップ王
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上がジュマヤ・ジャーミー、下に少し競技場跡が見える |
ジャーミーの横の入り口 |
それから、タキシムの丘に登る。途中教会の横をとおったら、結婚式がはじまるのかおわったのか、きれいな花嫁さんをみた。
スイーツ・アレキサンダーというバイオリニストの彫刻を眺めながらローマ劇場(AD2世紀)へ。
ローマ劇場 眺めはいいが、暑くてくたびれていたので、下の舞台まで降りる元気はなかった。
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二枚の写真をあわせたが、うまくいかなかった |
その後は19世紀に立てられた美しい屋敷群をみてまわった。ラマルティーヌの家(何とあのフランスの詩人がここに住んでいたとは)アカシア並木のあいだをあるきながら、きれいな家を見て回るのは楽しかった。家はどれも木造。
途中、チェンバロみたいな民族楽器(ハンマーダルシマという名だそうだ。ハンガリーのジプシー楽器としてはツインバロムという名だったと思う))で『歓喜の歌(ベートーベン)』を弾いている人がいた。
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ラ・マルティーヌの家 上の階に行くほど外に張り出している
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アカシア |
ダルシマ |
とりわけ綺麗だったのは、現在民族博物館になっている建物。バロック様式と民族復興様式がミックスされた、建物ということになっている)この庭では手つくりのアクセサリーを売っている人がいて、私は銀のピアスを買った。ゴシップの窓などというのもあった。家と家がくっついていてお向かいい同士ひそひそ話ができるほどなのでついた名。
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ネベ・テベの丘 |
そのあとネベ・テペの丘というところにのぼった。見晴らしが良かった。
15世紀の見張り塔の跡を見て、陶器やさんをのぞいて、お昼
12時15分〜1時15分 レストラン アランフランギテで昼食
中庭でのお食事で気持ちが良かった。
きゅうりとヨーグルトのスープ(これはさっぱりして美味しかったので、かえって作ってみたが、ヨーグルトが市販のでは味がついているせいか、あまくて、ブルガリアでいただいたものほど美味しくはできなかった。)
豚肉のミートボール アイスクリーム ビール3レバ
この町も旧市街はとても良いところで、もう一泊して博物館などもゆっくり見たいとおもった。
1時15分〜3時5分 バスで、ブルガリアの首都ソフィアへ 160km
シェラトン・ホテルでトイレ休憩のあと、徒歩で市内観光 ホテルの中庭に聖グォルギ教会がある。(AD4C)レンガを積み上げて作った円形教会。ドーム型の天井にはキリストの顔が描かれていた。。(10世紀、14世紀)
ヴァルナの浴場のようにヒーティングシステムがある。
ツムデパート、、共産党本部、ソフィア像、バーニャ・パシャ・ジャーミー(なんとこれはトルコのシナンの設計だそうだ)などを見ながら歩く。
それから、聖ペトカ地下教会に入る。建てられたのは14世紀でオスマン時代なので、小さく作られている。
洞穴のような地階はとても狭い。われわれがはいっただけでいっぱいになってしまう。
二階に上がる。窓はまったくなく壁にはフレスコ画が残っている。
そのあとは地下街へ、ここには広大なローマ遺跡が広がっていた。(地下鉄工事中に発見された)
ここで、ふと、ルーマニアは自分たちの祖先はローマ人と思っているのに、ローマ遺跡は見なかったな、と思った。 (私はその日体調が最悪で、記憶にないのだが、S氏によると、クルージ・ナポカにローマ遺跡はあったそうだ。)
そのあと大統領官邸前に行くと、丁度4時で衛兵交代を見た。衛兵と並んで写真も撮った。
公園、(ベンチでチェスをやっている人がいた。 そこから、国民劇場(新古典主義の建物)、聖ニコライ教会(1914年、ロシア正教)と歩きながら、見て回った。
ともかく、35度くらいありそうな暑い日で歩くのがとてもつらかった。色色な建物について説明されたけれど、ただヨロヨロとついて歩くのが精一杯。バスで車窓観光でいいとおもった。体力のなさを痛感。
聖ソフィア教会もとは6cにユスティニアヌス帝が建てたものだが、今あるのは20世紀に再建されたもの。洗礼式をやっていたおかげでカメラOKだった。そのあとには結婚式の人が順番を待っていた。レンガの縞模様が美しかった。
そのあとやっと、おめあてのアレクサンドルネフスキー寺院へ。
露土戦争で戦死した20万人のロシア兵を慰霊のため1882年から40年かけて建てられたもの。
中はとても広いくて5000人入れる。 ネオビザンチン様式
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国民劇場
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聖ニコライ教会 |
アレキサンドル・ネフスキー寺院 |
露土戦争慰霊というのがよくあることから思い出したのは、ブルガリアに行くと決まって、よく口ずさんでいた
黒き瞳何処、我が故郷何処
ここは遠きブルガリア、ドナウの彼方、、、
という歌。この歌は、もしかしたら、この時の戦争に狩り出されたロシア人の故郷や故郷に残してきた恋人を思う歌だったのではないか、と思った
帰国して調べてみたら、これは矢張り、ロシア民謡で、題はバルカンの星の下に だった。
ただし、露土戦争ではなく1945年に、ソ連兵がドイツとこの地で戦ったときに作られた歌だった。
しかし時代が異なっても兵士の気持ちは変わらないだろう。 この歌は私の年代では若い頃よくうたったもので、ブルガリアへ行ってみようかな、という気持ちになった心の奥底にはこの歌があったからではないかと思う。
一度外にでてから横のほうにまわって地下のイコン博物館にはいった。
30分ほど自由鑑賞。私は見る目がないので、なんとも評は出来ないが、いいなあと思うものがいくつかあった。
美術館の方が照明もあってよく観られるのだが、ここに来る前に観たアルパナシのように、教会内で見るフレスコ画のほうがいいな、と思った。
5時半ごろ ソフィアプリンセスホテル着。
ともかく暑くて、汗みずくなので、まずはお風呂。

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ホテルの窓から、ソフィアは山が近い
金色のドームがアレキサンドルネフスキー寺院 |
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7時45分 バスで食事に行く。
8時から、10時10分まで 郊外の山の中のレストラン BOYANSKO HANCE で民族舞踊を見ながらお食事 ソフスカサラダ、チーズズフレ、 グリルポーク、 ミルクパイ
ここにはS夫人(彼女はフォークダンスをなさる)のお仲間のフォークダンスをなさるグループの方たちもいらしていた。ダンスは、お客も踊った。社交ダンスをなさっていらっしゃるという最高齢者のDさん、S夫人や、そのおともだちと気持ちよさそうにおどっていらした。
最後に外でファイヤーダンスをやった。
お食事も美味しかったし楽しくて、旅の最後を飾るにふさわしい夕べだった。
10時半ごろホテルにもどった、
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