7日目

そのV

ワルトブルク城〜フルダ



420〜バス、ワルトブルク城のある城山のふもとで乗り合いタクシーに乗り換えてお城へ

Googleマップから写真を切り取ってのせておくが このように深い森の中を行く。前に来た時写真では お城の上に記されている(実際には下方)ホテルのレストランで昼食をとった。

 
 

入場を待つ間しばらく写真を撮る。

   
   城への入口、元は跳ね橋だった。

15351700 ヴァルトブルク城 Wartburg Castel http://www.wartburg.de/de/ (英語に直せます)

一度来たことがあるので、もう見なくても、という気持ちもあったが、どうやら今は写真がOKなので、それなら行ってみよう、という気になっていた。ただし有料。

このお城で有名な人物は 聖女エリザベートマルティン・ルター 催しとしては歌合戦が有名。

この城は 1067年にチューリンゲン方伯ルートヴィッヒ跳躍伯が基礎を築き、死後、子のルートヴィッヒ2世が引き継ぎ孫のルートヴィッヒ3世(統治は1172年)が増築、完成させた後期ロマネスクの城である。3世の死後弟のヘルマン1世が後を継いだ。

ヘルマン1世は歌合戦を開いたことで有名。その子ルートヴィッヒ4世に嫁いできたのが、ハンガリー王女エリザベート。
ここに来た時彼女はまだ4歳だった。122114歳で結婚、3人の子が生まれたが、夫は第6回十字軍に行った折 疫病で亡くなった。(1227年)

彼女の逸話として、貧しい人病める人にやさしく、しばしば城をぬけだして、パンを配ってあるいていた。
それを快く思わなかった夫である王がある日、咎めようと出かけたところ、籠のパンは花に代わっていた。
花摘みにきた、といういいわけができたそうだ。その伝説を描いた絵を前回は見たが、今回は見なかった。
夫の死後色々ないきさつから帰依していた師のいるマールブルクに移った。そこで貧民の世話などをしていたが、24歳で亡くなった。
死後 列聖され、マールブルクの聖エリザベート とよばれている。清貧のうちに過ごした姫君もいたのだ。

時代がくだって16世紀、マルティン・ルターが破門されたとき、ザクセンのフリードリッヒ賢公が彼をこの城の代官屋敷の部屋にかくまった(1521〜 22年)
ここで、ルターは聖書をドイツ語に訳をした。

最初の部屋には 改修の際とりはずしたオリジナルの柱頭などが飾られていた。どれも12世紀のもの。

   
   

壁画 1227年頃

 
 

騎士の間

 
 

3907 食事の間  天井はオーク材で伐採時期は1162

   
   

織物や  戸棚

   
   
 
  

エリザベートの間 190206年モザイクで飾られた。絢爛豪華!!

 
 

礼拝室 

   
 洗礼盤  
 うっすら壁画が残っていた 

エリザベートの通路は修復中で通れなかった。 絵葉書から、かごのパンが花にかわったところ

 
 

歌合戦の間  ワグナーの「タンホイザー」はここを見て生まれたそうだ。

 
 
 
 

12世紀のフィデル

   
   方伯の間の柱の基台

方伯の間 柱頭彫刻は どの部屋も後代の複製で、ロマネスク風ながら風情はなかった。

祝宴の間 

 
 

このあと 博物館へ、

13世紀の皿と聖遺物箱、大天使とミカエル(1460/70)

   
   

マルティン7・ルター夫妻の絵 (クラナッハ、エルダーによる)1526年に描かれたもの。1525年の結婚のウエディングポートレート、プロパガンダのために描かれた。

 
       

最後にルターが過ごした部屋へ、 長い廊下を通っていく。

食事室と書斎に分かれていた。(前は 書斎しか見なかった) 

   
   食事室
 
   

何かのための撮影中だった。

内部観光を終えて 中庭

 
 

跳ね橋 居城のドアの頑丈そうなこと

   
   

1720 〜 1700 移動

フルダのホテルへ マリティム・ホテル アムシュロスガルテン

お部屋は 現代的だが、レストランは隣接するオランンジェリー宮殿の地下 穴倉みたいで雰囲気最高。

 
 

お料理も良かった。 カボチャスープ ポークのベーコン巻き チョコレートムース

   
   
   
   
   
   泊まったお部屋