4:20〜バス、ワルトブルク城のある城山のふもとで乗り合いタクシーに乗り換えてお城へ
Googleマップから写真を切り取ってのせておくが このように深い森の中を行く。前に来た時写真では お城の上に記されている(実際には下方)ホテルのレストランで昼食をとった。
入場を待つ間しばらく写真を撮る。
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城への入口、元は跳ね橋だった。 |
15:35〜17:00 ヴァルトブルク城 Wartburg
Castel http://www.wartburg.de/de/ (英語に直せます)
一度来たことがあるので、もう見なくても、という気持ちもあったが、どうやら今は写真がOKなので、それなら行ってみよう、という気になっていた。ただし有料。
このお城で有名な人物は 聖女エリザベートとマルティン・ルター 催しとしては歌合戦が有名。
この城は 1067年にチューリンゲン方伯ルートヴィッヒ跳躍伯が基礎を築き、死後、子のルートヴィッヒ2世が引き継ぎ孫のルートヴィッヒ3世(統治は1172年)が増築、完成させた後期ロマネスクの城である。3世の死後弟のヘルマン1世が後を継いだ。
ヘルマン1世は歌合戦を開いたことで有名。その子ルートヴィッヒ4世に嫁いできたのが、ハンガリー王女エリザベート。
ここに来た時彼女はまだ4歳だった。1221年14歳で結婚、3人の子が生まれたが、夫は第6回十字軍に行った折 疫病で亡くなった。(1227年)
彼女の逸話として、貧しい人病める人にやさしく、しばしば城をぬけだして、パンを配ってあるいていた。
それを快く思わなかった夫である王がある日、咎めようと出かけたところ、籠のパンは花に代わっていた。
花摘みにきた、といういいわけができたそうだ。その伝説を描いた絵を前回は見たが、今回は見なかった。
夫の死後色々ないきさつから帰依していた師のいるマールブルクに移った。そこで貧民の世話などをしていたが、24歳で亡くなった。
死後 列聖され、マールブルクの聖エリザベート とよばれている。清貧のうちに過ごした姫君もいたのだ。
時代がくだって16世紀、マルティン・ルターが破門されたとき、ザクセンのフリードリッヒ賢公が彼をこの城の代官屋敷の部屋にかくまった(1521〜 22年)
ここで、ルターは聖書をドイツ語に訳をした。
最初の部屋には 改修の際とりはずしたオリジナルの柱頭などが飾られていた。どれも12世紀のもの。
壁画 1227年頃
騎士の間
3907 食事の間 天井はオーク材で伐採時期は1162年
織物や 戸棚
エリザベートの間 1902〜06年モザイクで飾られた。絢爛豪華!!
礼拝室
エリザベートの通路は修復中で通れなかった。 絵葉書から、かごのパンが花にかわったところ
歌合戦の間 ワグナーの「タンホイザー」はここを見て生まれたそうだ。
12世紀のフィデル
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方伯の間の柱の基台 |
方伯の間 柱頭彫刻は どの部屋も後代の複製で、ロマネスク風ながら風情はなかった。
祝宴の間
このあと 博物館へ、
13世紀の皿と聖遺物箱、大天使とミカエル(1460/70)
マルティン7・ルター夫妻の絵 (クラナッハ、エルダーによる)1526年に描かれたもの。1525年の結婚のウエディングポートレート、プロパガンダのために描かれた。
最後にルターが過ごした部屋へ、 長い廊下を通っていく。
食事室と書斎に分かれていた。(前は 書斎しか見なかった)
何かのための撮影中だった。
内部観光を終えて 中庭
跳ね橋 居城のドアの頑丈そうなこと
17:20 〜 17:00 移動
フルダのホテルへ マリティム・ホテル アムシュロスガルテン
お部屋は 現代的だが、レストランは隣接するオランンジェリー宮殿の地下 穴倉みたいで雰囲気最高。
お料理も良かった。 カボチャスープ ポークのベーコン巻き チョコレートムース
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