3日目

 そのⅡ

ヴェルネ・レ・バン~サン・ミシェル・ド・キュクサ修道院 



ヴェルネ・レ・バンに戻り、少し街中を歩いて
1220分~ ホテル・プリンセスのレストランで昼食

田舎風サラダ、 カタルーニャ風チキン、 ケーキ風アイスクリーム

   
   
   
   

1325分 レストランを出発

途中 村の共同洗濯場の横を通った。

   
   

1340分 バス

山を下りてゆき、1350分頃 ビルフランシュ・ド・コンフランの城(?)の横を通った。コンフランというのは「合流するところ」という意味だそうで、川が合流するところだ。山の上にもお城があったが 高いところで、見張りにいいそうだ。

   
   

 
 地図からするとこれは リベリア砦のようだ


14時 サン・ミシェル・ド・キュクサ修道院 Abbaye de Saint M ichel de Cusa
この修道院のHP http://abbaye-cuxa.com/ 
写真などはこちらが豊富http://www.monestirs.cat/monst/annex/fran/lleng/cuixm.htm

ここはカニグー山の麓でチェリストのカザルスがフランコ政権に反対して移り住んだプラドの町の近くである。

ピレネーをはさんでスペイン、フランスを治めていたのが セルダーニャ・コンフラン伯(カニグー創建にもかかわった。前にも書いた通り、今ではピレネー山脈がフランスとスペインの国境であるが、現地ガイドのバスの中での説明によると、当時は山がそれほど通行の妨げにはならなかったそうだ。(考えてみれば当時は車ではなく、徒歩か馬。通行に難儀するのは多分当たり前のことだったろう。それに羊などは山道が平気で柵でもない限りどこへでも行く、あまりにも急峻な崖は別だが)

近くにあった修道院が878年に洪水で流されたため、この地に修道院を再建、伯の保護のもとに発展した。多いときには、450人の修道士がいて、この辺りに強い影響力をもっていた。

現存する修道院の建物の成立年代は 三つに分かられ、 
10世紀 身廊と翼廊と内陣 
11世紀前半に(カニグーでも出てきた)修道院長オリバ971年生まれ 10081046による、翼廊と後陣の改築、ナルテックスと塔の増築、 
12世紀 大理石の回廊とトリビューン

   
   平面図 (パンフレットより)

写真の左教会の入口が 右平面図のATRIUMとあるところの上の入口になる。 

何だかトンネルのようなところ(平面図の下の通路)を入り左に曲がって入ったのが、楣桶の聖母の礼拝堂

これは驚異の一語に尽きる。中央から木が生えて傘をひろげたように天井を覆いそれがそのまま壁となっておりてきている。

一本の柱で 支えられている空間である。こういうのは 以前ドイツ、フルダの聖ミカエル教会のクリプタで見たが、それよりすごい。(ミカエル教会クリプタの写真は 右記で)http://ykharuka.s113.xrea.com/germany/07-germany10.html

すっぽり包まれている、胎内感覚、といえばいいのであろうか。 この不思議な感覚はその場に立ったものでなければ分からないと思う。薄暗い中、夢幻の世界にいるようであった。声も出ない。

   
   楣桶の聖母の礼拝堂

 
 

立ち去り難い気持ちを引きずったままここを出る。ここは地下にあたる。(外の地面と同じレベルであるが)地下の廊下のようなところを見る。

   
   右奥の階段を上がると中庭

少し階段を上がると中庭回廊。 しかし半分くらい残っているだけである。フランス革命で荒廃(修道院解散令)して柱頭は散逸、アメリカ人が多くを買い集めて現在、ニューヨークのクロイスター美術館に回廊が再現されている(ニューヨークで唯一私が行きたいところ)。

石はこのコンフランで産出する赤い模様の入った大理石。聖書的とは言えない彫刻である。緑の山背景にした回廊はとてものびやかで静かに悠久の自然にとけこんで美しい。

 
 
 
 

作られたのは1130年~1140
柱頭彫刻をいくつか

   
   
   
   

 
 

途中の部屋に修道院の模型

 
 中央より手前部分は 消失
この手前部分は11世紀前半、修道院長オリバによって造られた
手前のドーム下、が最初に見たクリプト(階段なしで直接入れた、地下だが半地下ということになろう)
 塔も現在は 左側一基のみ、形も違っている、多分後年支えのために 一番上の写真のように固めたのだろう

回廊から教会に入る。入口

 
 
 
 上写真 アーチの左側を拡大 ルカをアラワス牛?

アーチの両脇には パウロ、ペテロ
買ってきたパンフレットには 下左には パウロとかいてあったが、 右の写真は 載っていない。 対になっているので、ペテロと 解釈したが、 石の模様で 鍵を持っているのかどうか判別しがたい

   
 パウロ  ペテロ

アーチがここに置かれたのは1953年の修復の時からで、その前は修道院長の部屋の入口にあったが、もとは教会内の大ギャラリーを飾っていたようだ(この後に行 セラボンヌのようにトリビューンがあったらしい。根拠としては、1953年の修復の際に身廊に残骸があったことによる。しかし、それがセラボンヌのように身廊をわけていたのか、西側にあったのかは分からない、と買ってきたパンフレットには書いてあった)

教会内部、ロマネスクの教会としては広いほうで、天井も高い。

 
 

ここでは馬蹄形アーチを見るのを楽しみにしていたが、照明と外光でくきっりしたアーチが撮れていない。なんだかボーッとしてしまって、しっかり隅からすみまで見ていないような気がする。 残念だ。

   
   
   
   


馬蹄形アーチについての説明

 
 時代からして、この教会の馬蹄形アーチはモサラベと思われるが、この教会としての見解では 西ゴートから直接きたもの、 と説明された。

先に見た 楣桶の聖母礼拝堂の上にあたる 聖三位一体礼拝堂は無くなっていて土台だけがあった。

   
 聖三位一体礼拝堂跡 (上の模型の手前部分)  教会入口(10世紀)馬蹄形アーチ

礼拝堂跡との間にアトリウム。そこから西入口をみて、また回廊に入る。もとのクリプタをぬけて 外に出た。外観をみましょう、と教会の外周を歩く。

 
 教会北側

1520分 バスで 出発

そのⅢに続く